嗚呼、インドネシア
64話 ブジャン渓谷=スリウィジャヤ? 

 かねてからの念願がかなって、2010年2月7日にマレーシアのブジャン渓谷にあるスリウィジャヤ時代の寺院遺跡を訪問することができた。
投宿したホテルはペナン島のタンジュンブンガにあったので、まずはバターワースにフェリーで渡り、フェリーターミナルに隣接しているバスターミナルからバスで一路スンガイペタニ(Sungai Petani)に向った。

9:15 ホテルからバスでペナン島のフェリーターミナルへ
9:45 フェリーにてペナン島離岸
10:20 バターワース着岸
10:30 バスにてバターワース出発
11:10 スンガイ・プタニ(Sungai Petani)町着(CityLinerバス代 RM3.90)
11:25 タクシーでスンガイ・プタニ発
11:55 レンバー・ブジャン(Lembah Bujang)遺跡博物館着 (タクシー代RM20)

 博物館は入館料無料であったが、内容はその割に充実していた。博物館と遺跡の案内板の一部には英語が使われていたが、マレー語だけの場合も多かった。
まずは入口にある舟の残骸から。
 
【案内板和訳】
ここに展示してある船の破片は、ムダ河沿いの考古学遺跡を発掘している際に発見され、三世紀以来商品を運ぶ船として主に利用された「サゴール舟」と呼ばれるものの残骸である。
これらの残骸は、サゴール舟を主な運搬手段として、クアラ・スンガイ・メルボク(メルボク川河口)にあったレンバ・ブジャン港での交易のための物資輸送に同地の人たちが利用したことの証拠である。
サゴール舟は、一本の木から掘り出したケダ州のマレー人の伝統的な丸木舟である。舟の材料はMerbau(鉄木の一種), Bongor(?), Pulai(モモ科の木)である。この舟は、20世紀になって道路が整備され、道路が交通手段の主役にとって代わるまで使われていたのである。
発見場所は:
Kampung Padang Pulai, Mukim Teloi Kanan, Baling, Kedah (1996)
Kuala Ketil, Kedah (1996)
Kampung Pengkalan Lebai Man, Sungai Petani, Kedah (2001)
Kampung Padang Geh, Kuala Ketil (2002)
Kampung Ekor Padang, Kuala Ketil (2003)
Kampung Pulai. Baling, Kedah (2003)

 『南斉書』扶南伝に記載された舟の寸法から絵をかいてみたのが下の絵である。これらの残骸から見るとふたまわりばかり小さい舟の残骸であった。
 この舟の形と寸法からみると、内水用かあるいは沿岸航行用であり、遠距離運搬用の商船とは思えない。ただ、写真からは側舷に板を貼り付けて排水量を増加させていたように見えるから、島伝いに数十キロメートルの航行は可能であったろう。残骸からは見られなかったが、アウトリガーと帆は備えていたと思われる。これらの舟はこの遺跡付近で使われていたものではなく、遺跡のはるか下を流れるメルボクあるいはムダ川で使われていたものである。ちなみに遺跡は海抜約130mであり、遺跡から約2km下ったところにある村は海抜約30mである。
 この考古学サイト付近の全体地形図。黄色で示してあるのがこの考古学博物館の位置。手前が南。博物館裏の山が独立峰のジェライ山である。
このサイトのあるジェライ山をわざわざ登らなくても、東側の平地を進めばソンクラ方面との交通にはなんの問題はないのである。更に交易都市は港から近いところに建設されるのが普通であり、川面から120mも高い位置にあるこの地点は都市になる理由がないから、宗教施設であったのだろう。
この遺跡はブジャン「渓谷」とは呼ばれているが、遺跡が存在するのはメルボクとムダ川のデルタ地帯である。

展示物序文にはこうある。

ブジャン渓谷はマレー半島でもっとも前史学者に知られた考古学サイトである。5から4世紀におけるブジャン渓谷の支配者は多数の遺産を我々に残したという事実がそれを裏付けているのである。現在まで、彼らが残した80個所を越えるサイトがブジャン渓谷で発見されている。そのいくつかは大規模で戦略的な位置で発見されている。この地域は、マス川とバトゥパハット丘、メルボク、ペンディアット丘、コーラス丘、ブジャン寺院集合体であると知られる有名な考古学サイトである。
ブジャン渓谷に現存する遺産はイギリス人滞在者であるJames Low大佐が1840年代にその発見を報告した時に世界に知られたのである。ブジャン渓谷の考古学調査は1960年代から続けて行われた。ブジャン渓谷の調査に携わった考古学者には、Quaritch-Wales,とAlesteir Lambs,B.A.V. Peacock, Leong Sau Heng, Nik Hassan Shuhamiと政府の博物骨董部であった。

館内に展示されていた貿易地図

現在のマレー半島はChersoneseとして西洋にしられていた。

マラッカとケダーを通る四世紀以降の東西海上交易ルート
点線は義浄が辿った航路である。

 Bujang渓谷は2-3世紀のタミル詩pattanopolaiにKalagamとしてその名が見えますが、Kalagam はKedahと同じ意味のKadaramと同義であり、1030年のチョーラ朝の石刻からKadaramは古いサンスクリット寓話、特に7-8世紀に書かれたKaumudimahaisava Dramaに見えるKatanaと同じであることがわかる。
<http://www.geocities.jp/yoccaici/Diary/diary200708.htmlからコピーしました>

 左の地図に見えるように、仏教とヒンドゥー教の遺跡が混在している。その時代については説明がなかったので何とも言えないが、仏教徒たちが最初に都市を建設し、インドで勢力を盛り返したヒンドゥー教徒がこの都市の住民としてつないだのだろう。
 ジャワの遺跡と比べるとその規模は極めて小さい。

この図はベンガル湾を横断してマレー半島にいたる南アジア人の交易ルートを示す。このルートは3世紀以降利用された、インドとの交易の繁栄を担ったのである。

図に示す港は紀元後数世紀の間にインド人交易商人が訪れた地である。

 一方、7世紀にBujang渓谷はChieh-Ch'a (Kie-tch'a)として中国の交易商人たちにも知られていた。この当時はたくさんの僧侶たちが中国からインドへ渡った。その一人が義浄である。義浄は671年に中国から出帆し672年にスリウィジャヤ(パレンバン)に着いてサンスクリット語を習った。翌年義浄はマレー列島経由でインドに向かう途中でブジャン渓谷を訪れた。
ナランダ大学での12年の仏教修行の後、義浄は帰国の途につきその途中で685年にブジャン渓谷に立ち寄っている。彼の記録から、ブジャン渓谷が商業中心地であり、かつまたスリウィジャヤの支配者にとってはこの地域での主要港であった。

 左の地図は法顕(Fa Xian)が帰国の際に辿ったルートである。行きのルートはシルクロードをたどったのである。

 スリウィジャヤとマレーの関係してChieh-Ch'aの位置に着いて、義浄 (I-Tsing)が685以前の他の仏教徒の航海について説明する際にこう書いている。
 東風と北東風に乗って、彼はChing-Hungと共に航海しShih-li-fuに到着した。それから彼らは皇帝の舟にのりマレーのChouまで15日で帆走した。次の15日間でケダのChieh-Ch'aに着いた。冬の終わりに舟に戻り西に向けて出帆した。
 義浄はナランダへ671年に皇帝が仕立てた船の乗客としてインド渡航に出発し、ケダの旧名で中国語ではChieh-Ch'aと呼ばれた土地に立ち寄った。大学で12年間学んだ後、義浄は帰国の途中、中国に戻る前に685年にケダに立ち寄った。Chieh-Ch'aは商業の中心地であるとともにスリウィジャヤ王国にとってこの地域での大きな港であったと義浄は記している。
 マレー半島の北西に位置する地域のケダのブジャン渓谷にChieh-Ch'aの支配者はますます傾倒した。ホイットレーは、638年に中国に入貢したChieh-Ch'aがケダであると信じている。またインドの資料に見られるKalaha, Kadaram, Kidaram, Kidaraなどはケダのブジャン渓谷を意味していると学者たちが信じている。RC Mujendranは、シャイレンドラ(Sialendra)末裔から出た王がKalahaあるいはKitaraを支配し、その後スリウィジャヤを支配するようなったと信じている。レイデン博物館保管の石碑にはシャイレンドラの王がKatahaの支配者として6回記載されている。

アラブの航海者たちによるブジャン渓谷に関する記載
 8、9世紀におけるアラブの航海者たちはブジャン渓谷をKalahと名付けていた。アラブ側の資料ではマレー半島北部に位置するKalahあるいはKalahbarとして知られた商業の中心地として記録されている。交易品は錫であった。Sin wa'l-Hid紙ではbarというアラビア語は王国あるいは海岸を意味するということである。したがってKalah-barとはAl-Zabaj (スリウィジャヤ)の支配下にあった海岸に近い王国という意味になる。

 多数の航海者たちが訪れた文化が高く繁栄した王国としてのKalahの存在は、城壁に囲まれ、中には花園や水道、市場があり多数の人口を抱える大きな王国であるとAbu Dulaf Misarが書いたことで広く知られるようになった。この都市の住民は鍛冶屋などをやって生計を立てていた。彼らは自分を浄化するために、家畜は屠殺しないで食べていたと思われていた。また川で水浴を行っていた。食料としては、目方で売られる小麦と野菜、個数で売られるパンがあった。衣類としては、薄く織られた中国から輸入した絹(Firand)を着ていた。Kalahの社会ではきちんとした公平な法制度があり、罰則の規定まであった。


 博物館内の展示物の数が、マジャパヒト考古学博物館のそれに比べて非常に少ない上に、ここのサイトもがっかりするほど小規模である。この規模のチャンディ(祠堂)ならばジャワ島に百個所以上は存在するだろう。

彫刻された石材

これはマジャパヒトの印章(ジャワ島)と左の模様が似ていないか

ヨニなど

チャンディの模型

ブジャン渓谷にある遺跡の紹介。
Pendiat祠堂 (Candi Pendiat)
【案内板説明和訳】
 この遺跡はブジャン川の東方のメルボク・ペンディアット集落で発見されたものである。 11世紀ごろに建設されたものとおもわれるこの遺跡はQuaritch Walesによって1940年に発見された。
 1974年に考古学局が考古学調査と発掘調査を実施し、その後このブジャン渓谷博物館構内に移転したものである。

バトゥ・パハト丘祠堂 (Candi Bukit Batu Pahat)
【案内板説明和訳】
 この祠堂はブジャン渓谷の主神殿であり、1936-37年にQuaritch Walesが考古学的な測量を行っていた時に発見されたものである。この調査に続きAlaster Lambが1959-60年にかけて詳細な調査と発掘を行った。発見された時にはこの祠堂は破損がひどかったので1960年に元の位置で修復した。
 この建物はヴィマナとマンダパでヒンドゥー教のシヴァ神を含むものである。(原文ではこうなっているが「祀るものである」だろう) ヴィマナとマンダパがつながって一つの基壇となっていてその寸法は縦27m、横12m、高さ2mである。材料は、ここからそう遠くない小メルボク川の河原にある平たい花崗岩をノミで整形したものである。39個と28個の礎石の上に建てられたヴィマナとマンダパの屋根はヤシの葉で葺かれていたことが考古学調査の結果からわかっている。
 このサイトの発掘調査で見つかった遺物で興味深いものに8個の石の箱があった。個の箱には各々9個の穴があいており中には僧の遺灰と牛とリンガ、蓮の花、亀をかたちどった金と銀、銅製品と貴石と真珠で造られた女神の座像が入っていた。その他の遺物には中国磁器の破片と鉄釘、像の台座、Trisula dewa sivaのブロンズ像があった。これらの遺物は、この祠堂がヒンドゥー教に影響を受けたシャクティ祈祷に使われたということを示している。
 Quaritch Walesはこの遺跡は7あるいは8世紀に建設されたものと言っているが、最近の学者は12から13世紀に建設されたものと言っていてこちらの方がより正確である。

ペンカラン・ブジャン祠堂 (Candi Pengkalan Bujang)
【案内板説明和訳】
この遺跡はもともとブジャン川東岸のペンカラン・ブジャン集落に存在していており、Quaritch Walesが1936年にサイト第22とともに発見した。1976から77年にかけてこの遺跡は発掘調査の対象となりその後この博物館敷地に移設されたものである。この遺跡は8個のストゥーパをその脇に持ち、北東に向いている。構築材料は素焼きレンガである。1976年の発掘調査の際、鉄釘が発見されたことからこの構造物は木造の屋根で覆われていたと考えられている。しかしながら、階段は祠堂の内部に導くようには作られていない。また祠堂の内部は中空である。
発掘物のうちで考古学的に興味を惹かれるものには、素焼きの仏像、象の形をした像、菩提薩多の像、青銅の像、サソリの頭、金の指輪、イヤリング、Pallava文字の浮き彫りがある石、鉄釘、ガラスビーズなどである。これらの発掘物から、この祠堂は仏教の影響を濃く受けた11から12世紀ころに建設されたものであると推測される。

ちなみにこの女性と遺跡の年代とは無関係である。

熱帯雨林がすぐそばまで迫っている。

この祠堂が使われていた時にはこのような像が納められていたのだろう。

遺跡公園最上部から望む

 この祠堂の煉瓦に特異な形状が見られたのである。左が煉瓦の拡大写真。
 同時期に建設されたジャワの遺跡の煉瓦に比べると、煉瓦は多孔質とは言え空洞が大きすぎる。また表面にはガラス質が析出しているように光沢を持っていた。

 その他の屋外展示物にはこのようなものがあった。

何に使われたかのか不明な臼状のもの

石臼。真中の臼には「盛」と「祥」という漢字が見える。

酒船石のようなもの

使途不明なもの。UFOの部品とでもいっておこう。

このヨニは水が流れ出す溝が付いていない!
 この遺跡で不思議なのは、ヨニはあるのにもかかわらず、リンガが全く見当たらないことである。このヨニの上に丸い石棒を立てて、ようやく完成のはずなのだがどこに行っちゃったのだろう。
 またこのヨニは表面がすり減って凹凸になっている。このようなヨニを見るのは初めてであった。

 「シュリヴィジャヤの謎」の著者である鈴木俊氏は、マレーシア政府はこの遺跡のプロモーションに積極的ではないと著書で述べていた。
たしかに遺跡への政府の力の入れ方は不足気味である。
 博物館はきれいなのだが展示物が少ないこと、説明が不足しているのも確かであり、パンフレットも内容が不十分である。 インドネシアの東ジャワ州にあるマジャパヒト王国の遺物を展示しているトロウラン博物館に比べるとはるかに貧弱である。

 現地の人に色々と尋ねた結果、マレーシア政府が遺跡に力を入れない理由がおぼろげながらわかってきた。
 理由その1- 今のマレー人は11から14世紀に半島に移住してきたので、この遺跡はマレー人の遺跡ではなく先住民の遺跡である。
 理由その2-この遺跡はインド文化のものであり、マレーシア人口の中で15%を占めるインド人は、マレー人にとってあまりうれしい存在ではない。
 理由その3- イスラムでは他の宗教をきわめて嫌うので、宗教遺跡の保存に熱心になれない。

 上記の理由からこんなふうに思うのである。
 マレー人はスリウィジャヤ(シュリヴィジヤヤ)王国の末裔なので、たとえ宗教が変わったとしてもジャワ人のように先祖の遺跡は大事にすべきだと思うのである。

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2010-02-15 作成
2015-03-06 修正
 

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