嗚呼、インドネシア
62話 バンテンの瀉血治療師 

  1995年に赴任していたインドネシアパマラヤン堰建設事務所につとめる政府側の人に筆者より五歳くらい上の人で、勤務先の先輩たちとも長いこと一緒に仕事をしてきたとても頼りがいのある男性がいました。

 筆者がパワーストーンを好きなことを事務所のスタッフがかれにしゃべったのでしょうか。この人が「なあ、ボクはパワーストーンを持っているんだ。どこに持っていると思う?」と会議が始まる前に聞くので、彼を上から下までみて、「デスクの上にあるその筆箱の右端だ」というと「うーん、よく分かるなあ」と感心していました。それから、とても仲良しになり、先祖伝来というその石を見せてもらったりしました。カボッションに磨いた水晶のようでした。中には小さなゴミがたくさんあり、宝石としての価値はないものでした。
 しかし、彼は数十年間その石を肌身離さず持っていました。この石で九死に一生を得たことが何回もあったそうです。
さて、この人から、町の近くに高名な超能力者がいて、彼らは高血圧、糖尿病、痛風などの治療のために定期的にその超能力者の家に通っていると聞きました。

 プロジェクトもヤマを超えた1995年頃、パソコンを使いすぎて筆者が目を酷使したため、ついに目が開けていられない状態まで悪化してしまいました。そのときにふと、この超能力者のことを思い出して、教えられた場所の記憶をたどりながら、そこの家のある村にたどり着きました。
 村の広場には、どこかで見たような車が止まっていましたが、目が痛くてそれどころではありませんでした。教えられたその家に行ってみると、まあなんと、さっきの水晶のおじさんやら見知った政府の人たちがたくさんいたのです。
 彼らは治療が終わったようで、リラックスしていました。ひとしきり、ここまできた経緯を説明して、皆さんに納得していただいた後、彼らは帰宅して筆者ひとり取り残されました。
 この家にいる超能力者と呼ばれるおじいさんは、しわしわの半ズボンに穴の開いたランニングで現れました。
 目が痛いと訴えると、「あそこにうつぶせになって、頭を縁側から出せ」とあずまやを指差します。うつ伏せになりながら、その人の行動を観察していました。まず、バケツに少し水を張って筆者の頭のちょうど下におきます。次に、ポケットから小さなナイフを出して、やおら砥石でごしごし研いでいます。
 いったい何が始まるのかとドキドキしていると、「ちょっとピリッとするけど、大丈夫だから顔を少しあげな」と、顔をあげると、黒目の外側を垂直に延ばした線上で眉毛の生え際から三センチばかりのところをひとさし指でぴんぴんと叩いて、「よしよし」なんてぶつぶつ言ってるのです。
 さっき研いでいた汚いナイフをやおら、ぴんぴんとしたところにあてがって、今度は人差し指でナイフを強くはじきました。右から左へと一秒間もかからなかったでしょう。
 「下を向いて膝から下をポンプのように動かせ」というのでその通りにしながら、鮮血がほとばしるだろうと期待していましたが、黒い血が少し出ただけでポタポタと細くなってしまったのです。「もっと足を動かして、ポンプポンプ」といわれて「ポンプ」したのですが、すぐに止まってしまいました。
 「もう出ませんよ」というと、脱脂綿を持ってきてナイフで切ったところに当てて、「起き上がってしばらく押さえていな」とすたすたとその場を離れて、取ってきたものは黒いリボンにアラビア語で「呪文(多分)」が書かれたものでした。それを脱脂綿の上から鉢巻にしめて、ベランダでしばらく休んでいたのです。
 どうもこのおじいさんは筆者に親近感を抱いたようで、ワシが作ったコーヒーを飲めとか、ウチの田んぼでできた米から作ったお菓子を食え、とお菓子を山のように持ってきてくれました。でも、おいしくなかったのです。だいたいこの地方の人たちには舌が肥えた人がいないようで、どこのうちでごちそうになっても、ぜーーーーんぶ、マズイ。
筆 者はその日の最後のお客さんだったようで、おじいさんは刻みタバコを詰めたパイプをベンチでうまそうにくゆらして、筆者のことなどを聞き出しました。
 二時間ほどしてから、帰宅しました。目を開けることができるようになり、アレほどひどかった眼精疲労もどっかに行っちゃったようでした。顔を洗うと、切られたところがぴりぴりするのはしょうがないことであったでしょう。その晩から、こんどは頭部をとおっている視神経がぴりぴりして、頭痛がします。しばらくすれば落ち着くだろうと思っていたのですが、治りませんでした。ついに一週間後に、またおじいさんをたずねると、「よしよし」と今度は眉間のあたりに傷をつけて、黒い血を出しました。この日はお客さんがいなかったようで、施術後、パイプをくゆらせながら、自分のことを語り始めました。子どもが23人いていまの奥さんは七人目だとか、水曜日と土曜日は自分でバイクを運転して50km離れたタンゲラン市にあるモスクまでイスラムの説教をしにいくなどのことでした。
 それから数ヶ月は訪問しなかったのですが、ふとした機会に立ち寄ってみると「日曜日は客が多くて大変だから手伝いに来い。やり方を教えてやるから」とお願いされちゃいました。でも、その時は約三年間の駐在が終わりに近づいて仕事の片づけや事務所のことやらで、土日なしだったので丁重にお断り申し上げました。 それから、半年後に休暇帰国のお土産の腕時計を持って尋ねると、もろ手をあげて歓迎してくれましたっけ。それからいままで、懇意にしていますが、その技術を教えてもらうところまではまだいっていません。
 この血を出して治療(瀉血)をするおじいさんをひょいと尋ねてみたときに、手や足に包帯を巻いています。 話によると、オートバイに乗っているときに交差点でクルマと側面衝突して転倒して三十メートルも転がって滑ったのだ、とのことです。六十歳台のくせに、オートバイでぶっ飛ばすのが趣味なんです。
 「一応病院にいって応急手当を受けたのだが、そのあとの病院かよいが面倒なので自分で薬を作って塗っているんだが、化膿しちゃっているところもある」と平気の平左なんです。
 包帯を巻いた上から「ふむふむ、ここと、ここだな、ここもだな」というとニコニコ笑って「そうだそのとおり。ホレ見せてやる」と包帯を取って見せてくれました。日本なら当然のこと抗生物質注射をするところですが「抗生物質ではなくて伝統的な方法で治療するのだ」といきまいていました。
 化膿している部分を気功で治療して「痛みは?」と尋ねると「ほとんどおさまった」とのことでした。
 お暇するときにおじいさんが「ありがとう、ありがとう」といった言葉がまだ脳裏に残っています。
 このおじいさんの特技は、糖尿病、高血圧、リウマチ、痛風、脳内出血、脳梗塞などの固定しかかった病気の治療です。半年に一回は、なんともなくとも健康診断代わりに受けている人が多いようです。

 このプロジェクトが終わってからはしばらくこのおじいさんにはご無沙汰していたのですが、ランプンの竜神様の引っ越しを手伝ったときに、体調がすぐれなかったので、2001年8月16日に治療にいってきました。
 数年前と同じように額を三箇所切って出血させたところ、血液がねばぁーっとして落ちないところもありました。治療師のはなしでは、このズルズルが血液の流れを邪魔しているのだということで、額からこそげとってしまいました。
 血が出ているところの写真も何枚かとってありますので、ここに掲載します。
額の真ん中からズルズルしているものが出ているでしょ。これが血管を詰めていたものです。頭痛の時の治療法です。
こちらは内臓の病気などで足がしびれたり体の片側だけが冷たくなっているときの治療法です。このおばさんからはコップ半分の血が出ました。
一緒に記念写真を。右端のおじいさんは血圧が200以上もあったのをこの治療でなおしてしまったそうです。いまはぴんぴんしています。
このおじいさん(82)のアスマルさんが瀉血師です。裸じゃ恥ずかしいと言いましたが、「裸が制服だからいいじゃん」と無理やり写真をとってしまいました。五年位前にこの瀉血師のお爺さんがオートバイに乗っていたところを車にぶつけられて30mも転がって体中に傷があったときに、痛み止めと化膿止めをしてあげたことがありました。いい年して自宅から50km先の町までオートバイでぶっ飛ばすんです。四輪車は渋滞に巻き込まれるから嫌なんだそうです。

瀉血師のおじいさんも服を着ると普通のお爺さんです。隣はチョー高血圧を治してもらったおじいさん。
 場所はこちらです。Serang Timurのインターから約5kmでCiruasの交差点です。角にある高い電話アンテナが目印です。
 曲がり角に人がいないような田舎なので、できたらGPSを持ってゆくことを勧めます。

 この数年後に、長年腰痛を患っているドイツ人の友人をここに連れて行きました。治療した当座は体が軽くなって腰痛がなくなったようで喜んでいましたが、2006年に再会した時には腰痛がしっかり復活していました。残念でした。

 また2012年に再訪した時には、アスマル翁はすでに衰弱していたがまだ意識があって、再会を喜んでくれた。その後しばらくして亡くなったということを聞いた。瀉血治療は翁の息子が行っている。

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2007-10-15 作成
2015-03-06 修正
 

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