嗚呼、インドネシア
61話 西スマトラ州の紹介 
第1章 パダン料理の話

「西スマトラ州」と聞いても皆さんにはご存知のない方がほとんどでしょう。でもパダンと聞けば、「ああ、あの辛いパダン料理かぁ」とインドネシアに行ったことのある方なら誰しもが気づかれるでしょう。
 もうすこしインドネシアに詳しい方は、先のとんがった屋根を持つ家がある地方であることもご存知でしょう。この地方の人たちは首都のジャカルタではタナアバンやジャティネガラに集まって衣料品の商売をしていることも有名です。歴史的にもなかなか興味ある地方でもあり、その地理的条件からイスラムがいち早く上陸したために戒律に厳しい地方であるということも言えるでしょう。
 今回は有名なパダン料理の話から始めましょう。
 パダン料理店はすべてファストフードシステムで、客を待たせません。
 左の写真はパダン料理店として全国的に有名なSimpang Rayaのパダン市の本店です。
 我々がレストランの席に着くとすぐに注文取りのボーイさんが来ますので、顎を料理の方にフンッとしゃくえば、下の写真のようにあれよあれよという間に料理が乗った小皿の山が目の前にできます。
 この山のうち自分が食べた分だけを払えば良いので、それほど驚く事はありません。すると、残りはどうするか?という疑問が湧きます。そうです。次の客に回すのです。ですから、半分食べただけでも残りの半分をきたならしくしておくと、次の客に回せませんから全額徴収されてしまいます。料理店でパダンの人たちの食べ方をみていると、まず緑色の唐辛子ソースをつけたタピオカの葉や野菜をスターターにして、魚介類、肉と進んでいきます。この料理にはビールやウイスキーは合いません。

元祖シンパンラヤ

パダン料理

好きなものを食べてください。

ご飯はソロク米という特殊なものでおいしい
パダンの人たちは一概に働き者で、怠け者をからかって「君の家では鍬がたくさん余っているが、食事をしようとすると皿がたりない」という表現があります。ジャワにはこのようなことわざがないのは、ジャワでは大きな皿に大量の料理を盛り付けるといった料理の出し方が違うことと、お皿を使って食べる習慣は最近広まったためではないかと思います。


第2章 独特な家の形
今回は西スマトラ州独特の家の形についてお話しましょう。
 木造高床式の住居は東南アジア全般に見られる建築様式であり、地表面近くに集まる害虫や害獣から住民を守るためと、高温多湿の気候にあわせた様式です。
 高床式で屋根の先が上がっている建物は、インドネシアのほかの地域では、北スマトラ州とスラゥエシにありますが、ミナン人の家とは異なり先がとがっていないのが大きな違いです。

パガルユンの王宮。ちなみにこの王家の当主はマレーシアの王様をやっています。
 この屋根の形はジャワとの戦争の時に水牛を使って勝利をおさめたので水牛の角をかたちどってデザインされたというのが通説になっています。しかし、水牛の角は牛とは異なり後ろ向きに生えていていますし、角のはえている間隔も離れていますから、どうもこの説は通説のようです。
 上の写真は、ミナン人の伝統的な家をかたちどった博物館です。この建物はこの州の中部にあるパガルユン村にあったサルタンの館が焼失したため郊外に再現したもので、屋根が三重になっていますがこれは大型建築物の場合であり、一般民家の屋根は一重です。また中央部にこちら向きに張り出している部分の屋根の稜線も優雅な曲線を描いています。
 この写真を元に屋根の形からミナン人の秘密に触れてみたいと思います。

2001年頃

2020年6月

2001年頃

2020年6月

 上の写真はラオラオ(Raorao)村の写真で、ごく普通の集落にある普通の民家です。側壁が斜めになってい手いるのが分かると思います。すべて木造でガラス窓はありません。内部は大きな広間の回りに娘の数だけ部屋があると言われていますがそうでもなさそうです。
 まず、中央の屋根に注目してください。高校時代に習った曲線には双曲線や漸近線、放物線、懸垂線、楕円などという曲線がありました。これの中で、屋根の曲線は懸垂線に近い形をしています。懸垂線とは、送電線の電線のたわみに代表されるような重さが一定の柔軟なロープを張った時の曲線です。アウトドアがお好きな方はすぐにお分かりでしょうが、ロープを張ってその上にシートを掛けるとこのような曲線になります。また、樹木のない平地にロープを張る場合には両端に柱が必要で、垂直に立てた柱が倒れないようにステーロープを外側に張り出すのが普通です。ステーロープを使わずにテントを隙間なく建てるためには、屋根のロープの張力を柱の倒れようとする力で拮抗させる必要があります。このように力学的つりあい条件から、写真に見るように屋根の端が垂直ではなく傾斜しているのでしょう。また上の博物館の写真からは、軒は屋根の稜線に較べると直線に近い形をしているのがわかるでしょう。
 今度は、このデザインで構造物を作るのに必要な材料について考えてみます。両端に使うまっすぐな長くて太い二本の大黒柱、四隅の柱とロープ、シート、軒に使う比較的まっすぐな材料です。これらの材料はすべて大型木造帆船の部材に相当します。また建物の内部は、大航海時代に欧州で建造された帆船の構造によく似ています。ということは、この建物を最初に考案した人は船の構造をよく知っていた人ということになりますし、住宅を建てた大工さんたちも船の構造をよくわきまえていたのではないかと思われます。
 スラウェシのピニシとは異なり、今ではミナン人独自の形をした大型木造船こそありませんが、昔はこの地方で大量の大中型船舶が建造されていてその技術が一般化していたということが推察できます。さらには、ミナン人達は昔から船に乗って、マレーシア、スリランカ、アラビア、遠くはマダガスカルから南アフリカまで胡椒貿易に出かけていたという歴史的事実が、ミナン人には高度な船舶建造技術と操船があったという傍証になろうかとも思います。今でも、スリランカ、マダガスカル、南アフリカには西スマトラの出身者の末裔であろうと思われるマレー人が住んでいて、かれらはまだマレー語を使えるということを聞きました。彼らがインドネシアにイスラムを持ち込んだ最初の人たちとも言えるかもしれません。

第3章 ミナンカバウ人

 今回は、西スマトラ州の人たちについてお話しましょう。
 この地域の人たちはミナン(ミナンカバウ)人と呼ばれていて、ミナン人は隣接州のリアウやジャンビにも広がっています。また、メダンにあったスルタンディリもリアウ州出身者でしたからミナン人であると思います。第二話でお話したように、ミナン人は昔から航海技術に長けていたため、マラッカ海峡を越えたマレーシア側にもたくさん住んでいます。マレー人とミナン人は言葉も文化もほとんど同じですし、マレーシアのサルタンのみならず国王の先祖は西スマトラの出身です。ジャワを中心として見るとマレーシアはインドネシアとは違うと感じられますが、西スマトラ州を中心としてみると、マレーシアよりもジャワのほうが距離的にも文化的にも遠く感じられるのは地理的条件から当然のことでありましょう。
 ミナン人を定義してみると
 「一人では故郷をあとにする、二人ではパダンレストランを開く、三人では契約書をつくる、四人ではメッカ巡礼」となります。
 第三話でお話したように、日本のように昔から教育程度が高かったために、ジャカルタに出ているミナン人たちには高学歴の人たちが多いことが言えます。インドネシア社会の上中流層に属する人たちの中で、インドネシアの各種族の人口比率からみるとミナン人の割合が高いのは計数感覚と進取の気性によるものでしょう。
 華人が得意とする家族のシンジケートで仕事をする「アジア的資本主義」というよりも個人企業の雰囲気が濃いのも、ミナン人の経営する会社の特徴とも言えるでしょう。あとでお話ししますが、ミナン人は基本的に母系制社会ですので「かかあ天下」でケチと言われるのも民族の成立経緯から見ても当然のことです。
 さて、西スマトラ州とベンクル州の境にスマトラの最高峰のクリンチ山があります。この山はとても深くて人跡未踏の場所が数々あり、その深い山懐にはオランペンデク(Orang Pendek)と呼ばれる原始人がまだ生息していると言われています。彼らは人間の姿を見つけるやいなや山に逃げ込んでしまいますので、観察記録などはないようですが、オランペンデクの名の通り身長は1メートル足らずなのに対して体の幅が1メートルもあるといわれています。そんなわけはないと思いますが、飛行機から見るクリンチ山の森の深さは原始人がまだ棲息している可能性を彷彿とさせます。
 筆者が仕事場にしていたスンガイダレーという村から十数キロ入った山の中には、文明におかされていない未開人が住んでいます。かれらは木の皮で作ったふんどしだけをつけて山野を走りまわっていると聞きます。かれらは時折人里に下りてきて蜂蜜や薬草などの山の産物と工業製品などの町の産物を物々交換します。パダンにある国立アンダラス大学の教授の話によると、かれらはミナン人の子孫ではあるがイスラムが入ってきた時に改宗を拒否して山に篭った人たちの末裔であるとのことです。ということは、イスラムが西スマトラ州に入ってきたのは約千年前ですから、少なくとも数百年間は文明を拒否していることになります。
 また、敬虔なイスラム信仰に支えられ、自由闊達、進取の気性に富み、率先して己の可能性を求めてこの地から故郷をあとにして出稼ぎに行くrantauと呼ばれる風習があります。他の土地でお金を稼いで故郷に錦を飾ることがミナン男の宿命のようなものです。出稼ぎ先でそのままいついてしまう場合も多く、インドネシア全土のみならずマレーシアにもミナン人は住んでいます。
 議論が大好きで得意なのでインドネシアの政治家の中にもミナン人はたくさんいます。たとえば、古くは故スカルノ大統領の右腕であったハッタ副大統領、イマムボンジョル、シャリフディン、最近では良識を代表するアブドゥールムイス、アリフィンベイ、さらにはインドネシア銀行総裁としてスハルト、ハビビ、グスドゥール大統領の三代に仕えたシャリル・サビリンなどがあげられます。余談ですが、このシャリル氏は他の官僚に較べると任期が異常に長かったため、大量のお金が蒸発してしまったバリゲート、ブロクゲート、ブルネイゲート事件にも関与している可能性は高いと思います。<BR> ミナン人は商業だけに長けていると思われそうですが、そうではなく各村には村民の子弟教育にあたる教師の家系もあり、かれらは財産こそ少ないが、村民からは尊敬されています。人口密度の高く階級社会が進んでいるジャワとは異なり、この地域では社会の階級層の分離が進んでいない一方、出稼ぎの必要性からか教育が昔から発達していました。1975年頃のインドネシア統計では人口千人あたりの新聞の購読者数が、ジャカルタ、スラバヤ、メダン、ジョグジャについで5番目でした。同規模人口をもつジャワの地方都市とはまったく異なっていたのがいまでも記憶に残っています。

第4章 ミナン人の商売

 ジャカルタでよく見かけるミナン人は、だいたい商売をしているひとです。ジャティネガラやタナアバンのパサールでは衣料品の商いをしているミナン人が多いことにきづかれることでしょう。彼らは係数感覚が鋭くも華人以上の商才を発揮しインドネシアの流通に深く関与しています。西スマトラ州の一般商店で驚いたのは、かれらの暗算能力が高いことでした。
 ミナン人は事務員など他の仕事ではなく商店を経営している人が多い。それは、彼らはいつでも席を外せるような時間的に自由な仕事を選ぶことに優先権を与えているからです。ふいの家族の用事などにも率先して出席できるようにしていると聞きます。金曜日の正午過ぎのパダンのパサールを回ってみると、商店の前には「金曜礼拝中」のテープが張り巡らしてあるのが目に付きます。少々収入が多くても、時間に縛られる事務員、軍人などはあまりこのまれていません。商店主以外には、時間的に自由がきく学校の教師も好まれる職業のひとつだそうです。時間と場所に縛られる農業や、勤め人、特に軍人は嫌われる傾向にあります。
 第三話でお話したように、日本のように昔から教育程度が高かったために、ジャカルタに出ているミナン人たちには高学歴の人たちが多いことが言えます。インドネシア社会の上中流層に属する人たちの中で、インドネシアの各種族の人口比率からみるとミナン人の割合が高いのは計数感覚と進取の気性によるものでしょう。
 華人が得意とする家族のシンジケートで仕事をする「アジア的資本主義」というよりも個人企業の雰囲気が濃いのも、ミナン人の経営する会社の特徴とも言えるでしょう。あとでお話ししますが、ミナン人は基本的に母系制社会ですので「かかあ天下」でケチと言われるのも民族の成立経緯から見ても当然のことです。
 社会階層がしっかり成立しているジャワとは異なりミナン人は平均化した社会を校正しているためか、故郷で人が人を運ぶベチャ引きや女中さんなど奴隷の仕事に類する職業を選ぶより、たとえ苦労が多くとも自主的に行動できる行商などに出ることが多いことが言えます。これは男女を問わず言えることです。また、ジャワ人に比べると計数感覚にするどく自己主張する傾向が強いため、無口な日本人にとってあまりうれしい相手ではないような気がします。ただ、直接的な表現を多用するためこの人たちの意思が明瞭に伝わるという利点があります。
 計数感覚が鋭いということは頭が良く回るということにもなります。ちゃんとした家庭と学校教育を受けた人たちはその教育結果を良い方に使いますが、そうでない人たちは当然のこと詐欺師として活躍(?)しています。海外でインドネシア人に騙された人たちに尋ねると、騙した人たちのほとんどがパダン人と自称するほど有名です。
 数年前にミナン人商店にあるヘアムースをすべて買い占めたことがありました。日本なら纏め買いの際には安くするのが当然ですが、かえって高くなりました。その理由として「全部売ってしまったら、商品がなくなるからだ」ということをあげていましたが、じつはこちらの足許をみていたのでしょう。商品の価格というものは売り手と買い手の間の必要度で決まってくるもので、単価商売になれた日本人には追従できないものがあります。

第5章 ミナンの音楽

 インドネシアの民謡というと、北スマトラ州のバタックソングとアンボンの歌が思い出されます。
バタックソングの音色とハーモニーの影に隠れてそれほど目立たないのですが、西スマトラ州にも美しい歌がたくさんあります。太平洋戦争後、日本兵達が復員を待っていた間に口ずさんだといわれる望郷の歌であるTakana Jo kampuangがインドネシアに長く滞在している日本人にとってなじみあるものです。
「タナンの河原でランバユンの花を摘もうよ」と歌うBabendi Bendi (馬車を連ねて)も、下の写真のようにミナンの少女達が舞う「傘踊り」の時に演奏されます。
 プンチャクシラット(剣舞)タリピリン(皿の踊り)扇の舞などのミナン人の民族芸能は、ミナン人が全国的に広く散らばったことによりインドネシア化したものが多く、パントウン(四行詩)も同様で、現在でも男女の交流にこの詩形式が常用されています。
 音曲における各種の竹笛(Saluang)・太鼓はミナン独特の音色を醸し出す。上の写真で右の二人が叩いているものはtamburと呼ばれる太鼓であり、ゴングのようなものはtalempongと呼ばれる打楽器であり、ジャワガメランで使われる楽器と酷似している。アラブから持ちこまれたと思われる広くて浅い太鼓はgendangと、タンバリンのようなものはrebbanaと呼ばれる。西スマトラ州の各地方の民謡にも郷土色が色濃く映しだされているのみならず、ポップスでもミナンの歌にはミナンのアイデンティティーが顕著です。メロデイはそこはかとなくアラビックなオリエンタル調が哀愁ある竹笛の細かい抑揚で表現され、この土地の個性豊かなオリジナルともいえましょう。上の写真は、タリピリンの伴奏者達。


 有名なミナンの歌に、M.Mamuja 作の「Kelok 44 (44まがり) 」があり、ランタウ(rantau=出稼ぎ)のために故郷をあとに長い下り坂を下りてパリアマンの港に向かう哀愁が漂っています。この「44まがり」とはマニンジャウ湖に下る道路であり、現在は一番上の道路が付けかえられて45の曲がり角になっています。 下の写真は「44曲がり」の最上部にある展望台から2000年7月2日に撮影したマニンジャウ湖の全景です。

第6章 ミナンの民族衣装

 その土地の文化は気候風土と歴史、それに宗教に大きく影響されます。ここ西スマトラ州でもその例にもれず、東南アジアという気候風土と、外国からの民族の流入とそれに伴うイスラムの普及が、大きな影響を落としています。
 まずは、民族衣装からはじめることにしましょう。 左上の写真は女性達の正装で、ジャワとの戦いで勝利した故事からMenang Kerbau(勝利の水牛)が種族の名となったといわれ、女性の髪飾りはミナン人独特の優美で大きなタンドック(角)を形取っているのが分かります。また、ジャワとは異なり、古くに渡来したイスラムの決まりにしたがって、女性達は肌を見せないような衣装を身につけています。写真を一見して分かるように、ミナン人は赤い色を好み、服飾のみならず結婚式などのお祝い事にも赤い装飾がかかせません。スマトラの東海岸地方も赤い色を好む傾向があるそうです。赤い色を好んで使うのは中国人であり、昔から物資の流通が盛んで国際交流が盛んであり、中華文化が色濃く残っていることを物語っているのかもしれません。右の写真はあくまでも「付けたし」の男性軍です。
 右の写真はプロウプンジュン郡役場の儀典係の男性を撮影したもので、一目でアラブ風の服装であることがわかります。左側にいるジーンズ姿が筆者です。
  女性達はジャワのカイン・クバヤのように上着が短く腰の部分がはっきりと見える衣装ではなく、長い上着で腰の部分を隠しています。女性は肌を見せないといったイスラムの影響もあるのでしょうが、ジャワ人に比べるとミナン人は平均して男女ともにがっちりした体型をしており、骨盤も大きいため、ぴったりした服装だと前部に張り出した骨盤が女性特有の丸いシルエットに影響を与えるのでこのようなデザインに落ち着いたのではないかと考えられます。
 どこでも子供たちは愛らしくそして憎たらしいのである。
ミナン族の典型的な結婚披露宴。左は新郎新婦。右はおばさんたちと。
 次は、西スマトラ州の歴史を少しひも解いてみることにしましょう。
  スマトラ(Svarnadvipa 金の国)のスリマハラジョデラジョ(栄光の王の王)はアレキサンダ?大王の第三子で、マラピ山の山頂に碇を降ろしたという国造り伝説がある。五世紀にスリウイジャヤ仏教交易王国が南スマトラに勃興した前後からこの地は金産出地として知られており、スリウイジャヤの富はこのミナンの金で賄われていたといわれている。さらに、スルタンパガルユンがバトウサンカルに強固なイスラム国を建国したのは、インドネシアにイスラム教が渡来したといわれる十一世紀を遥かに遡るとも言われている。その後、アディタヴアルマン王(ジャワ人混血)が数々の碑文を残して歴史に登場するのは十四世紀であるが、前歴史時代に既に文字文化(解析不能)がある事が知られている。
 カユマニス、ダマルなど森の富は、マラッカ海峡に注ぐ両カンパス、シアク河を経て交易されていた。この地が内陸であるにもかかわらず、地名にムアラ(錨地)やタンジュン(岬)を冠したり、古謡の詩に舟、舵、櫂の比喩が多いのも、河川を利用した広範囲な流通経路があったことを示している。この河川の流域地方から海岸線にかけてはミナン語が使われてムラユインドネシア語の祖語になった程の影響力を持っていた。
 下って胡椒貿易では早くからインドアラブとの関係が深まってゆく。それらの富が西欧植民の干渉を余儀なくされるが、かのスタンフォ?ドラッラルズが1818年にこの地を訪れ、農業商業など社会組織はジャワをも凌ぐと称賛した。
 この地には昔の街道筋や大河川という交通ルートから外れた谷間に作られた集落が多いことが特徴としてあげられる。美人の産地として知られている、パガルユンから程近いリンタウ村は、古くから連続してアラブ人が入ってきている。インドネシアの空手ともいわれるシラットの足の踏み方がこの村だけ中国の少林寺拳法に似ていることやリン・タウという村名などからみると中国人の影響が濃いことも言えるであろう。
 リンタウ村のように街道から離れた交通不便な土地に昔から外国人がわざわざ入りこんでいたのは、通商や農業のためではなくこの地域で大量の砂金が取れたからなのであろうか。さらに、この地域にはキンという名前を持つ川が多いことは、砂金採取のために中国人が最初にセトルしたのではないかということも推測できる。

第7章 ミナンの相続

 歴史的・世界的にみると父子相続が一般的な財産相続方法だが、ミナン人たちは先祖伝来の田畑屋敷などは母から娘へ相続する方法を取っている。
 相続と言っても日本のように所有権が移転するのではなく、農地の使用権が相続人(娘たち)の間でぐるぐるまわる。そうすると土地の登記簿には個人の名前がかけないし、さらに氏姓がないから、被相続者の母親の名前にしておくのだそうだ。ちなみに、サワルントゥー出身である友人の奥さんの実家では、末の妹が家と田畑を守っている。
 娘といっても、地域外に出ていった娘には使用権がなく、母親の家やその近隣に居住していて、農地を利用できる娘たちの間で利用権が移動している。この土地から上がった純利は、貯蓄しておき、家の補修や先祖の供養などに利用する。ところが、経済危機の辺りから、ジャカルタなどに出ている娘たちの生活が苦しくなったためか、彼女たちからも土地を利用させろという要求が出てきて、古いシステムの維持はだんだん難しくなっている。
 たまたま自分の子供が娘ばかりだった場合、弟に1/8の遺産を与えるようにするといわれている。これは娘たちの将来に対する保険料のようなものではないかと思われる。
 母娘相続は先祖伝来の土地、主に農地と住宅に関する相続方法であり、男が働いて買った不動産などは、この相続方法ではなく、シャーリア(イスラム法)に基づいて息子2、娘1の割合で分割しているそうだ。また、都市の拡大につれ住宅用として農地を売却するケースが増えてきた。例えそれが先祖伝来の農地であっても、売却する必要が出てきたら、今度はシャーリアに基づいて現金で分配相続することになっていると言われている。
 ミナン族の相続システムは経済発展が停滞した農業地帯に適応したシステムであり、変化が激しい高度情報化と商工業が経済の主体となっている現代には次第にマッチしなくなってきている。この環境変化によって商業の民のために作ったシャーリアがだんだんと幅を利かせるようになってきていると感じる。
 耕地が限定された農業地域ではシャーリアに基づくと耕地が細分化されて効率が悪くなるばかりで、ミナンのような母娘相続の方が農地を活用する為には効率的であったと言える。また中東のように部族間戦争が少なかったということもミナン地域における女権の拡大につながっていたとも言える。
 稲作においては、どうしても男の力が必要なのは田起こしと代掻き、戦争の時だけだ。気候が温暖なので、水さえあれば2期作も可能であり、昔の東南アジアの男はヒマをもてあましていたことだろう。
 世界的に見て、結婚する時には花婿側から花嫁側に結納を贈ることが普通に行われていた。
 しかし、海岸のパリアマン地域では、結婚する時に、花嫁側から花婿側にお金を贈ることになっている。一説には、「パリアマンには美人がいないから、持参金をつけるのさ」ともいわれているが、この町からは映画スターなども輩出しているので、この説は一概に信じることはできない。

第8章 離れ離れのミナン人

 もともと、ミナン人はブキティンギ一帯で栄えていたが、徐々にインド洋側の海岸に下りてくるようになった。海岸のパリアマン町はオランダがバイユール港を開港するまで、西スマトラ州の貿易港として栄えていた。このバイユール港は現パダン市の南に隣接する沈降海岸の深い湾の中にあり、海上からは湾の中が見にくい絶好の良港であるが、町からのアクセスは悪い。
 スマトラの地図を広げてみると、インド洋側には都市が少ない。北から港町を上げていくとバンダアチェ-(200km)-ムラボー-(120km)-タガンタガン-(300km)-シボルガ-(300km)-パダン-(420km)-ブンクル-(500km)-南端のパンダルランプンとなる。(距離は概略数値)
 風波が比較的静かなマラッカ海峡とは異なり、風波が荒く暗礁も多いインド洋航路に昔の船乗りは苦労したことだろう。 パダン市ができる前はインド洋側に大都市がなく、港の間の距離が長い上に船舶の運行が少なかったこともあり、ミナン人が、ブキティンギから山を越えてマラッカ海峡側に流れ込んだのも理解できる。そのために、ミナン人たちは、西スマトラ州からジャンビやリアウ州を貫通してマラッカ海峡に注ぐ大河川の水上交通を主に利用して移動していたと思われる。その結果、スマトラの山の中であるにもかかわらず、タンジュン(岬)XXやムアラ(停泊地)○○などという、海岸でしか見られない名前がたくさんあるのであろう。
 インドネシア語に強い方は、「O」で終わっている地名の最後を「A」に換えてみると意味が良くわかるはずである。ちなみに、ムアラブンゴは「花(栄えた)港」ということになる。
  新参の西欧人たちはミナン商人と商権争いを起こさないようにわざわざインド洋航路を取ったものであろう。
 西欧が植民地政策でアジア侵略を行った際、英国はスマトラの西海岸に盛んに守備兵を送り数百年に渡り海岸線を守っていた。今でも、ブンクルには英国の要塞が博物館として残されている。また、クロコダイルという名前も、ブンクル州で使われているレジャン語の「ちょっと待て」が語源だそうだ。また、ズボンなどのポケットはインドネシア語ではカントンであるが、ブンクルでは英語のままポケットで通用する。
 英蘭戦争の結果、スマトラの権益は英国からオランダへ、マレー半島にあったオランダの権益は英国へと委譲された。その結果、ミナン人たちがインドネシアとマレーシアの両国に分かれて住むことになってしまったのである。


第9章 千差万別のインドネシア人


 西スマトラ州といえば、アチェと双璧にたちイスラムが強い影響を及ぼしている地域として、知られている。いまでは、ムスリム(イスラム教徒)にあらざればミナン人ではない、とまで言われている。
 この地域にイスラムが上陸したのは約千年前でありジャワ島より約500年早い。イスラム以前にはヒンドゥー教の影響もあったらしいが、その痕跡はほとんど見られないし、ジャワでワリソゴと呼ばれるイスラムの伝承者たちの絵も見られない。パダン市で今でも使われているモスク(イスラムの教会)には数百年以上前に建設されたものもあり、ジュマー(金曜礼拝)はにぎわっている。
 このようにイスラムで統一されてきた西スマトラ州の大都市であるパダン市とブキティンギ市では、イスラムで禁止されている酒ととばく、売春の設備がないばかりか、治安もきわめて良かったのだが、ここ数年間にはとばくや売春が横行し始めてきている。2000年11月には「パダン市の一斉捜査で売春婦16名検挙」の記事まで地方紙上に掲載されるようになり、良識者の心を痛めている。これらの横行はイスラムの戒律 が守られていないことを証明している。
 また、パダン市内ではオートバイ盗難なども頻発しており、今までの治安の良さに甘えて、増員していなかった警察官の数が不足しているため、取り締まりを厳しくするまでにはまだ数年かかるであろう。
 数年前までは治安が良かったために、夜中に100km以上のドライブをしても全く問題がなかった。しかし最近は自動車強盗などの危険があるので、ミナン人であっても夜間の移動は控えているとのことである。
 イスラムがいまだに強い地域ではあるが、ムランタオ(出稼ぎ)の結果、州の外部で異教徒と結婚して、同州に戻ってきたミナン人達がキリスト教会を建設したり、集まってミサを行ったりすることに、ムスリム側から大きな反発をかっており、この問題に関して州知事まで乗り出したが解決の糸目はまだ見出せない。
 パダン市近隣の港町といえば、北へ約70kmの位置にある、古くから栄えているパリアマンである。この町にも古くから華人が住みついて商業を行ってきた。約20年前に、反華人暴動が発生して華人商店が徹底破壊された。それゆえ現在ではパリアマンに華人商店はあるが華人は居住していない。
 ミナン人は北スマトラ州のバタック人とともに物事をストレートに言うので、婉曲表現を好むジャワ人にはあまり好かれていないのは事実である。しかし、仕事の上では、われわれのような外国人には婉曲表現よりはっきり言ってもらった方が明快でよい。しかし、普通の日本人にとっては、彼らは個性が強すぎて付き合いにくい人種とも思える。
 ミナン人ではないがスマトラの部族出身の壮年男性が、「僕はいままでオーストラリア人や欧米人、日本人といっしょに働いてきた。日本人以外は僕のことを高く評価してくれたが、日本人は違う。あなたは日本人の心も、インドネシアのいろいろな部族の人の心も分かるから打ち明けたのだ」しみじみと打ち明けてくれた。
 「日本人と付き合う時は、外国人とは思わずジャワ人と付き合っていると思ったほうが良いよ」というのが、インドネシア滞在足掛け25年の筆者の口をついて思わず出てしまった言葉であった。
 インドネシアにおいて民族・宗教の違いによって発生する問題は、実に根深いものがある。部族、出身地、教育程度などにより、インドネシア人と一概に呼んでも千差万別である。日本人の常識では彼らを計り知れないのがインドネシアに筆者を引き寄せる魅力の一つなのかもしれない。


第10章 ミナンの水利権について

 この論文は2005年に友人の求めに応じて、ミナン人の友人であるアンダダラス大学農学部のアズワル・ラシディン氏からいただいた論文を読みやすく書き換えたものである。ここまで詳しく調査に応じていただいた同氏に深く感謝するとともに、先週発生したパダン地震から一刻も早く復旧されることをいのるものである。
西スマトラ州ミナン族の水利権について
Dr. Azwar Rasyidin記
1. まえがき
 西スマトラ州のブキッティンギ市を中心としてミナンカバウ族が住んでいる地域は山岳・丘陵地帯であるために、ほとんどの水田が山や丘陵の斜面に位置しています。平均年間降雨量は2000-2500mmですが、降雨の少ない地域では1500mmしかありません。また、この地域には大規模河川灌漑設備はなく、降水と小河川の表面水に頼っています。
 斜面に位置してひとつの水源から灌漑されている水田はHamparanと呼ばれていて、あちこちにこの地名があります。この水路網から給水されているHamparanではTuo Bandaと呼ばれる人が一人で管理しています。
 Hamparanは上流域と中流域、下流域に分かれていて、下流域の水田がもっとも広い面積をもち大体1ha程度です。これはこの地域を治めているPenghulu(村長のような人)と呼ばれる人の家族が所有していて最初に灌漑を行います。次は中流域、最後に上流域の小さな水田に灌漑を行っていきます。
 灌漑用水の量は水田の広さに比例して決めることになっていて、水路入り口を石や板で塞いで給水量を調整します。刈り入れが終わった時に、給水料金は農民は管理人に支払うことになっています。もし中上流域で給水量不足などによって農産物に被害が出たときには、下流域で給水の恩恵を受けたPenghuluは中上流域の人たちに農産物を分け与えなくてはならない決まりになっています。
 ミナン族は先祖伝来の農地と住居は同じ家族以外には売りませんし、その農地も村に住んで農業を行っている人が使う権利を持っていますので、他人に譲渡することはありません。

(註)Penghulu (村長、あるいは庄屋さん)。
2. 灌漑用水の運用責任者について
 ミナンカバウ族が農業を営んでいる地域は火山性の丘陵地域かあるいは山にはされまた低地である。ミナンカバウ族の中心となっている地域では年間降雨量が2000-2500mであり、よって灌漑用水は山間部を流れる表面水を利用しているがゆえ、灌漑システムは小規模灌漑システムとなっている。この火山性土壌のひとつの地域は各々の地域の村長が所有するhamparanと呼ばれるいつかの区域に分けられていて、一人のTuo Bandar(村長)と呼ばれる人が上中下流域の水田を管理している。
 一般的に下流域の水田は灌漑システムの下流域にあるため一枚の水田面積が大きく1haに達することがある。この水田は伝統的Penghuluの財産となっている。中流域の水田は灌漑システムの中流域にあり一枚の水田の面積は中くらいである。上流域の水田は灌漑システムの上流域にあり、一枚の水田面積も小さい。
 水の分配は水路に設けた障壁で行っている。以前は石を使って行われていたがこの障壁が壊れた際に、水路の流量が計測できるChipletty形式のような木製のゲートで給水量を調整しており、水田面積に基づいた必要量に応じて給水されている。
 水の使用料金は面積によって決められ、常時は収穫の後に集金することになっている。灌漑水路に重大な損壊があったときは多くの水田を所有している人が多くその修理費を負担することになっている。これはひとつのhamparanは先祖を共にする家族(kaum)であり、そのkaumは最大の水田を所有しているpenghuluの庇護の下に置かれているという伝統に影響されているものである。
 所有が子供から母親に変更になったとしても、その農地はひとつのkaumの中にあるかいくつかのkaumに存在するのであるから、給水料金額は不変である。たとえば給水が必要な農耕を行うときなど、水の取り合いになった際には、Tuo Bandaを通じて水分配の調停を行うことになっている。言い換えれば、農民同士の水争いを防ぐためにTuo Bandaが存在しているのである。
【度欲註】
 ミナン社会は伝統的な家族社会であり、kaumと呼ばれる母方の先祖を同じくする「一族郎党」の絆が極めて強く、同じ村落に住んでいてもkaumが異なれば完全な「よそ者」社会で、互いに通婚もしなかったと聞く。
 また、地域によってはその歴史からか排他性が強く、この伝統を守っている地域が多い。
 街道が貫通していたり交通の便の良い場所に昔から住んでいる人たちには結婚に関して排他性が強く、kaumの中から配偶者を選ぶのだが、街道から離れた地域ではこの方式を取っていない地域も多々あるようである。この地域では数百年前からインドネシア人のみならず外国人と通婚していて、一般的なインドネシア人とは毛色のちょっと違った人たちもいる。
 ミナンの母系制社会は世界的にみると少数派に含まれているということは、ほかの地域では母系制が淘汰されてきたとも考えられる。しかし、この地域に伝統的に続いているのには理由がある。
 大多数の男性が持っている脳の性質を男脳、おなじく女性のを女脳と呼ぶことにしよう。
 世界では遺産などの男子継承が普通なのは、継承者が遺産の維持管理に適する男脳の持ち主であるということが理由になっていると思うのである。
 インドネシアで脳の特性を調べるアンケートをとったところ、ミナン人と北スマトラ州に住んでいるバタック人は、男性に女脳が、女性に男脳の持ち主が多く、それも中間層がなく、分布が二極化していることが特徴である。
 したがって、ミナン族では、男脳を持つ率が高い女性が遺産管理などに適しているということを経験的に知ったため、母系制社会にしたのだろう。

2005/06/29 校了

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2007-10-09 作成
2015-03-18 修正
 

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