嗚呼、インドネシア |
第51話 ジョヨボヨ王の遺跡 |
2007年11月01日。ジャワ島東部のダムの現況調査の出張途中で、クディリ(Kediri)の近くを通ったので、ジョヨボヨ王がお隠れになった地点に行ってきた。 |
この遺跡はクディリ市の北東部9kmに位置していて、サトウキビ畑の中にあり、上の地図でentranceと示してある地点にはジョヨボヨ遺跡への案内板がないのできわめてわかりにくい。図中のEntranceの位置はS7 46.477, E112 04.445(S7 46'29", E112 04'27")である。この地図は北が上になっている。 |
入り口から約500mすすむと地図にPuraと表示したヒンドゥー・仏教の寺院がある。 |
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寺院。入り口は写真の左側 |
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観世音菩薩(サラスワティ) |
なんだかわからない石 |
この寺院は古くからあるものではなく、最近になってパリヒンドゥー教徒や仏教徒が建設したものであると聞いた。 Sendangと呼ばれる沐浴場である。寺院からは約400m北北東の方角にある。 |
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この門の先が沐浴場 |
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ジョヨボヨ王がお隠れになったといわれる地点。地図上Joyoboyoと書かれた地点。寺院から約600m南東に位置する。ここには同王の宮殿があり、ジョヨボヨ王は衣服を残したまま宮殿から消えてしまったということである。 マジャパヒトのような大規模な石造建築の遺跡がないのは、クディリ王国まではほとんどの建物が木造であったということなのかもしれない。 すなわちマジャパヒト時代に建築史上で大革命が行われたということになる。 |
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このモニュメントはなんでも見通すジョヨボヨ王の眼球をあらわして いるとのこと。 |
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王冠の塚 |
遺跡にある説明板 |
【説明板】 ジョヨボヨ王の消滅に関する説明 1135年から1157年まで統治したクディリ朝のジョヨボヨ王の消滅地はクディリ市内から12km北側にあるクディリ県ダグ郡ムナン村に位置する。 ホンドデント一族の発案により1975年に復旧され、ロカ・ムクサと名付けられた。毎年ムハラム月、ジャワ歴スロ月の一日には各地からの参詣人が参加してここで伝統的な儀式が取り行われる。 民間伝承によると、ジョヨボヨ王はジャワの土地における大王であった。世界の平和と安定を守護するヴィシュヌ神の生まれ変わりとして、ジャワ島を主にこの世で何が起きるかを記した「ジョヨボヨ王の予言」を作成した。この予言はジャワのみならずインドネシア全土の人たちにで今も深く信じられている。ここには四か所の遺跡がある。 (1) ジョヨボヨ王が消滅した場所 (2) 消滅した時に残された衣服の塚 (3) 王冠(Mahkota)の塚 (4) カマンダヌ沐浴場 クディリ王朝の王は以下のとおりである。数字は王位に着いた年(西暦) 初代 Sri Bamweswara/Kameswara I (1116) 二代 Sang Mapanji Joyoboyo (1135) 三代 Sri Sarweswara (1160) 四代 Sri Aryeswara (1171) 五代 Sri Candra (1181) 六代 Sri Kameswara II (1185) 七代 Sri Crengga (1194) このジョヨボヨ王の遺跡への道路は狭いので、乗り物によっては徒歩で巡ることになるかもしれない。日中は晴れているとひどく暑いので熱中症にかからないように注意が必要。儀式以外の時期は近くに売店はない。 |
インドネシアの独立に関してジョボヨ王の予言書に記載されていると言われている。ジョヨボヨ王の予言書にも何種類かがある。 Wiki pediaからダウンロードしたものの和訳はこちら。 この遺跡でジョヨボヨ王の予言書の解説本を購入してきた。サブダ・パロン(Sabda Palon)版で、モハメッド・ハリ・スワルノ(Moch Hari Soewarno, Augst 2004)である。サブダ・パロン版の和訳はこちら。 |
2009-09-29 作成
2015-03-15 修正