嗚呼、インドネシア
51話 ジョヨボヨ王の預言書
Sabda Palon版
このページの原文は「モハメッド・ハリ・スワルノ著Sabda Palon版のジョヨボヨの預言」からコピーしたものである。
これらのページ上の誤謬や誤解などのご指摘、ご意見などは以下へメールを頂けたら幸甚です。

まえがき
 このサブダパロン版のジョヨボヨ預言書は小生が1975年1月30日からジャカルタの日刊ブリタブアナ紙に終わりまで連載したことがある記事である。本紙を定期的に購読していない読者がおちついて完璧に内容を楽しめるという意図をもってこの本は平易な本の編集方法により編集したものである。この文は本来もっと早く出版される予定であったが、とある理由により出版が一年遅れた。 
 出版に関する問題は、偶然に校正者が死亡したことである。しかし、その前にこの原稿は消された部分が多くないが検閲に合格していたということを著者が知っていた。それゆえ、著者として感謝するものである。

 筆者が集めたジョヨボヨ王の預言書に関する原本や情報などから、この預言書の源は、実は西暦1618年にスナン・ギリ・プラプン(スナンギリ三世)の著したKitab Asrar(「秘密本」の意)という一冊の本であるということに集約することができた。これは西暦1613年にバリ島で書かれたマジャパヒトとシンゴサリの歴史に関するパララトンが著された時期とたった五年の差があるだけである。
 これはジョヨボヨ時代に関する初めての本であり、本物と見られる。カディラグ二世王子と呼ばれたカディラグ出身のウィジル一世王子の労作である。この詩人はたぶん自由な王子の一人であったとおもわれる。彼は、デマク近くのカディラグにあるプルディカン地域(免税地区)の統治権威という意味での独立の権利を有していた。もちろん彼はカリジョゴ王の子孫であるがゆえに家系について知ることができたというのは論理的である。最初はブラウィジャヤの歴史から始まり、最後(五番目)は新宗教であるイスラム、スナンカリジョゴとの三角関係について書かれている。ブラウィジャヤ五世とサブダパロンの別名のあるバギンダ大臣とナヤギンゴン、これらはこの本の中で説明するものである。

 また、スリプクブオノ二世(1727-1749)の時代に彼はカルタスラの宮廷詩人の長官であった。この王子の労作は、パジャジャラン年代記、マジャパヒト年代記、デマク年代記、パジャン年代記、マタラム年代記、カパカパ王、列王記などで構成されている。
 スリパクブオノ一世が王座に就いた時代(1704-1719)にはスマランで治療を行った。1691-1704までその地域を支配したヴァンオウトールン将軍(知事)の後任はGGヴァンフールン(1705-1706)であった。詩人王子は当時まだ若かったが、GGヴァンフールが1705年に目撃したように宮廷の繁栄を祝福するための使者としてスマランに呼び寄せられた。

 カルタスラ宮廷がソロ村に移転した時代、詩人王子はスリパクブオノ二世からその知識を求められた。続いて同王子はその仕事と、1744年に建てられる王宮のために選ばれたソロ村における土地の状態を詳細調査するための調査員としての責務に身を投じた。
 同王子は、スラカルタのスリパクブオノ二世の治世の1747年マウルド月7日月曜日のポンの日にこの世を去った。彼のムルデカ王子としての地位はその息子であるスムカルが引き継いだ。この息子は後日、カディラグにおいてウィジル二世王子(カディラグ三世王子)と改名した。一方、スラカルタ王宮の詩人としての地位はガブヒヤサディプラ一世1747年マウルド月10日木曜レギの日に引き継がれた。

 われわれが現在ジョヨボヨ時代を見つけられるのは「ムサラル本」、本当は「秘密本」であろう、からの物語である。上記のスナンギリの第三番目の文章である。その後、後世の諸詩人も新しい名前を名乗った。
 その「秘密本」は、ギリ・クダトンと呼ばれるジャワにおける最初の王国ができあがった古代からマジャパヒトに至るジャワの国の歴史の概略を記している。その後で正統な女王に交替した。このギリ・クダトンは、1481年にラデンパタがワリソゴたちによってデマクでサルタンとして王位に就く前の、1478-1481年のイスラムに移行しつつあった時代を構成していたとみられる。上記のようではあるが、ギリにあったイスラムの宮廷はまだ「正統」という性格を有し、これはスナンギリ三世の時代まで継承されていた。

 このスナンギリ三世以来、マタラムの大サルタンにより行われたため、その権威は終焉に向かった。ラデンパタが王位についた1481年以来、ギリクダサンのスナンラトゥは王位から降り、デマクのサルタンであるラデンパタに交替した。それゆえ、ギリの宮廷は1478-1481年かその前、スナンギリが最初に立ち上げた時代、あるいは1419年に歿したマウラナ・マリク・イブラヒムのあとと思われる時代に成立したものと思われる。デマクのスルタン国が崩壊した後、王国の王位はサルタン・パジャンである別名ボドボ女王の手に落ちた。上記のように、ワリソゴがまだ生存していた時代からヒンドゥー・仏教の影響のせん滅を希望していたシティジェナルのクバティナンの影響下において、ヒンドゥー・仏教とイスラムの半々に研究していたキアギンの支持の影響によったものであるからだ。

 この王国の滅亡後、新たに権威をもったマタラムであるスンダロワンが、全ジャワとマドゥラを支配したプラブ・ハニョコロ・クスモ(サルタナアグン)が王位に上った。近い将来、(このマタラムのサルタンアグンが自然から推測した)、一人の王がスンダロワン王国に登場し、ジャワ-マドゥラ、パタニ、スリウィジャヤを支配するサン・プラブ・ヘルチャクラという称号を唱えるワリユラーが王位に上る。

 このサルタンアグンの遺言は、サルタンが王位を降りた後、実際にはサルタンが没したあとで没落する時代にこの大きな王国では権威が再建されるだろうという予言を含んでいた。
これは実質上サルタン以降の諸王が自由に独立できないということを意味していた。このことは理解できる。というのはマタラム王国のその後はサルタンアグンの敵であるVOCの傀儡政府になってしまったからだ。サルタンアグンはVOCと1628&29年にジャカルタに攻めのぼっていったことを忘れてはいけない。

 プジャンガによれば、「秘密本」は作られてから??で再構成された。クディリのジョヨボヨ王に関する話の基礎として採用された。ダハ/クディリでジョヨボヨ王の命令で1157年にMpuスダが編集したカカウィン・バラタユダからこれらの名前が知られるのである。
預言が得意であったと民衆に知られていたジョヨボヨ王という新しい証拠やデータから、宮廷詩人のウィジル王子は、スラトバラタユダの源と「秘密本」とを一体化するために、歴史の形式で国々の芽生えを目に見える形でジャンカ・ジョヨボヨという題名の本を作った。
 この本の真髄を探そうという努力と希望に満ちた新規の作業は軌道に乗り、それが孫子の時代における植民地闘争精神の源となることができたのである。

 その黄金時代として描かれた詩人の夢は、サルタンアグンの意図を源とする精神であった。われわれが時系列的に調べてみると、事実上それは今ではインドネシア共和国と名付けられた主権を持つ大国のイメージを指し示している。
 それを融合した二つ目の源は、事実上、連続的にのちの時代の宮廷詩人たち、最初はヤサディプトラ一世のひ孫であり、ウィジル一世の後継者となったR.Ngランガワルシタで知られた宮廷詩人にも宣託を与えたものである。

 この「秘密本」の「ジョヨボヨ時代」の記事は18/19世紀のスラカルタの宮廷人たちがとても注目し、新しいジャワの文芸と文化の源となったことは明白である。「秘密本」ムサラル、預言書としてのみ性格を有するジョヨボヨが、事実上新しい説を生み出すもとになった。それゆえ、その後、特に預言が混った真実性のあるスラト・ジョヨボヨに関する各種の新説が生まれたが、一つ一つの歴史の背景につながっているという説明になっている。それゆえこの国が成立した歴史の追加分になっている。これらすべては「秘密本」(スナンギリ)とその中に掲載されている「ジョヨボヨ時代」という「種」とさらにはMpuスダとパヌルが編纂したスラト・マハバラタがその源になっている。これから、ウィジル王子の労作であるムサラル本で変えられてしまったジョヨボヨの預言と秘密本について詩人ヤサディプラとランガワルシタの作品とともに説明することにする。
 このサブダパロン編「ジョヨボヨ時代」は1749年のウィジル王子の文章であろうと思われる。詩の形式をとっているムサラル本もともに示す。

 もう少し詳しく知るためには以下を読んでみることが必要だ


L. van Rijckevorsel 著"Kitab riwayat Kepoelauan Hindia Timoer: J.B. Wolter-Groningen Batavia, 1928 87ページ
R. Tanoyo著, Djongko DjojoboJo" Sadu Budi Sala, 1946年刊。記事はボボド,すなわちイスラム以前の未開時代の迷妄に国(パジャン)を戻そうとしたキ・アグンとシェヒ・シティの意志に影響されて迷妄な国民が占める地域全体を支配していた王に関して書かれたもの。以下はワリにより唱えられたものである。ジャジャタとはデワに供するための儀式に必要なサテを作るために細かく切り刻んだ肉を意味する。このジャジャタ地域全体を支配していた王はラデン・パタであり以前のマジャパヒトの支配範囲をカバーした地域を意味する。
サルタンアグン時代のマタラムはスンダロワンとも呼ばれ、ジャジャタ地域とパスンダン/パジャジャランの土地もカバーしていた。これはチユン・ワナラ物語と関係がある。
スナン・ギリ・パラプン三世が著した「秘密本の預言」を仕上げたランガワルシタに関する1979年11月27日のBerita Buanaに掲載されたMoch. Hari Soewarnoの記事も参照せよ。
この文が世に出る年の1749年の二年前の1747年にウィジル皇子が没したことを考慮することは無理である。それゆえ後継者のヤサディプラ一世がこの文を引用した可能性が高い。
ププ11の9点の最初の単語を再チェックしたら、数字の一から九まで上から下に読むとPujanggaの名前の暗号となっていることがわかる。R.Ng. Burhan Inggih (第1点全文) Ranggawarsita Ing Surakarta." (第2 から9点まで)
ジョヨボヨ警告書のププ2の第4点はランガワルシタの「Kala Tidha 第7点=狂気の時代」と酷似している。もしこの「狂気の時代」が1841年に書かれたとすると、プジャンガも「ジョヨボヨ時代」を編集していた時期の1842年と同じ時期である。故にこのサブダ・パロン編の「ジョヨボヨ時代」は1841から1842年に書かれたものとほぼ特定できる。この要約は読者に失望を与えない。

第一章 ジョヨボヨ王の予言書
すべてジャワ語で書かれているので翻訳できません。アルファベット表記にした原文を示します。

1. Besuk yen wis ono kreto mlaku tanpo turonggo, tanah Jawa kalungan wesi, prahu mlaku ing awang-awang, kali padha itang kedunge pasar ilang kemandange, iku tondo yen tekane Jaman Djoyoboyo wis cedhak.

2. Bumi saya suwe saya mengkeret, sekitan bUmi dipajeki, jaran doyan sambel, kreto roda papat setugel. Wong wadon nganggo pakaian lanang, iki bakal yen nemom wolak-walike jaman.

3. Akeh janji ora ditetepi, akeh wong nglanq. gar sumpahe dewe. Manungso podho seneng nyalah. Tan nindake hl'kume Allah. Barang jahat diangkat-angkat, barang suci dibenci.

4. Akeh manungso ngutamake real. Laii kamanungsane.. Iali kebecikan. Iali sanak lali kadhang. Akeh bapak lali anak. sedulur podho cidro. keiuargo podh o curigo. konco dadi mungsuh. Manungso lali asale..

5. Ukuman, Ratu ora adil. Akeh pangkat kang jahat jaii. Klakuan podho ganjil, wong sing apik podho kepencil. Paakaryo apik manungso isin, Iuwih otomo nga pusi.

6. Wegah makarya kepingin urip kaya Raja. Ngumbar nafsu angkara murka anggedekake duroko. ~Wong bener tenger-tenger, wong salah bungah-bungah. Wong apik ditampik, wong jahat munggah pangkat.

7. Wong aqung kesinggung. wong ala dip~,jo-pujo. wong wadon ilang wadone. Nang wirange. Wong lanang ilang lanange. ilang kaprawirane.

8. Akeh jago tanpo bojo, wanito podho ora setiyo. Iaku sedeng bubrah jare gagah. Akeh biyung adol anak. akeh wanito adol awak. Bojo ijol-ijoiari Jarene jem polan.

9. Wong wadon nunggang jaran. wong lanang nuna_,gang plangki. Rondo seuang loro. prawan saiga lima. Dhudo pincang payu sangang uwang.

10. Akeh adol ilmu, akeh wong ngaku-ngaku. Njabane putih. njerone dadu. Ngakune suci. sucine palsu. Ake_h bujuik akeh loyo.

11. Akeh udan salah mongso, akeh prawan tuwo. Akeh rondo metheng, akeh bayi tanpo bapak. Akeh agomo akeh sing nantang, kamanungsan akeh sing ilang. Omah suci podho dibenci. oma~ olo podho dipujo-puJO・ Wanito' podho wani ing ngendl-Ilgendi.

12. Akeh laknat, akeh pengkhianat. Akeh anak mangan bapak. Sedulur ngJarak sederek. Guru podho disatru. Buruh dadi mungsuh, tonggo podho curigo. Kono-kene soyo angkoro murko.

13. Sing weruh ketutuh. sing ora iyo ketutuh.mbesuk yen ono perang teko wetan. soko kulon. lor lan kidul. wong bedk soyo sengsoro lan mbendul. Wong jahat podho seneng mangan berkat.

14. Wektu iki akeh dandang diunekake kuntul. Wong saiah dianggap bener. Pengkhianat nikmat. Dmjana sangsoyo sempurno. Wong lugu keblenggu. Wong mulyo dikunjoro.

15. Sing curang garang, sing jujur ancur. Wong dagang kemlanggang. Wong judl podho ndadi, Akeh barang kharam, akeh anak kharam. Prawan cilik ~ odho ngidam, wanito podho nglamar priyo, isih bayi wis podho mbayi. ing priyo ngasorake drajade dhewe.

16. Wong golek pangan pindho gabah den interi. Sing kebat. kebat kliwat. sing kasep kepleset. Sing gawe rame tompo gawe, sing cilik kecelik, sing anggak ketungkak. Sing wedi podho m,ati, nanging slng ngawur podho makmur. Sing ngati-ngati sesambat kepati.

17. Akeh barang klebu luwang, akeh wong kaliren lan wudho, ora dhuwe wirang mergo kepekso. Wong tuku nglenik sing dodol, sing dodol akal-akaI.

18. Pancen woiak-walike jaman. Amenangi jaman edan, sing ora edan ora , keduman. Sing waras podho nggagas. Wong wani ditaleni. Wong doro podho uro-uro. Begja-hegjane sing eling la~n waspodho.

19. Ratu ora netepi janji, musno kuwasane ilang perbawane. Akeh omah ing ndhuwur jaran. Wong podho mangan uwong. Kayu gligen. Ian wesi podho kolu diroso enak koyo roti bolu. Yen bengi ora iso turu.

20. Dagang barang saya laris, bandane saya ludes. Akeh wong kaliren ing sisihe panganan. Akeh wong nyekel bondho mng uripe sangsoro. Sing edan biso podho dandan, sing bengkok biso nggalang omah gedhong magrong-magrong.

21. Wong waras lan adil uripe anggagas lan kepencil. Sing ora biso maling podho digething. Sing pinter duroko podho dadi konco. Wong bener soyo thenger-thenger, wong salah soyo bungah-bungah, begjane sing eling. Akeh bondho musno ora karuan larine. Akeh pangkat lan drajat podho ningkat ora karuan sebab sebabpe.

22. Rawa podho dadi bero. eblis janmo manungso. Eblis majelis manungso soro. Wong bener thenger-thenger. wong salah bungah-bungah. Begjane sing eling, begjane sing lali, nanging isih begja sing waspodho.

23. Mulo den titenono. Manungso Jowo mengku Ratu, wis ora bapa ora ibu, titikane nganggo ketu bengi asirah watu wesi. Pangapesane wanodyo ngiwi-iwi. Jejuluk sarwo Agung edi.

24. Banjir bandang ono ngendi-ngendi, gunung njlebug tan niaruwani, lan ngimpeni gethinge kepati-pati marang pandhito-pandhito pati geni. Margo wedi kewiyak wadhi. Sopo arane sejati.

25. Ratu digdoyo ora tedas tapak patune pandhe sisa gurindo. Ning apese mungsu-h setan, tuyul ambregudull bocah cilik pating pende!ik ngubengi omah sorak-sorak koyo nggusak pltik. Ratu atine dadi cilik. Ngundomono bolo sabrang sing doyan asu.

26. Patine nunggu sabdo Bupatine Perang Bathoro Endro. Disabdo mati tan keno mimis, tan keno panggawe olo. nanging cures ludes margo lemes. ' Ketekan bayu priyonggo sinendat sinambi miring. Patine amargo kecepit saketing daging.

27. Ono wong tuwo ahli topo Aqung. Muncul neng tengah gunung Kendeng angrasuk busono ireng. ambryantu Rat,J Sing.dirubung tuyul anggereng.
Pandhito iku ajejuluk Condro Siji Jawa.

28. Adedagang carang ・klambi udeng lan lawe b~nang. Disujudi wong lanang sapirang-pirang. Umurnyo tan panjang, namong sawarso Jowo bang.

29. Tutupe warso jolu ngolu. warso kaping jingq. o nem pindho taun Masehi. Amargo tinutup kuali lumuten. kinepung semut ijo danten.

30. Polahe wong Jowo kadya gabah den interi. Endi sing bener endi sing sejati. Poro topo ora wani podho wedi anyiarake wewulang edhi margo salah-salah nemu pati.

31. Hamongso wus warso jilu mo warso Jowo ngolas molu warso iso. Bakal ono Dewo angejowantah. apetlgawak manungso. apasuryan pindho Bethoro Kresno aweVvatak Bolo Dewo ageman Tri Sulo Wondho.

32. Sadurunge teko ono tetenger, Iintang kemukus doVJO 'ngalu-alu tumotljo ono kidul wetan bener. Lawas pitung bengi, parak esuk benter. ilang katut Bathoro Suryo. Jumedul bebarengan prihatin. sing wis mungkur. yoiku poro Dipati sing ngempet-ngemper sumur dening manungsc anak turune setan mabur pnhatine kawulo kelantar-lantar, iku tandhane putro Bethoro Endro wus katompo topo lagi teko. Ing Marcopodho ambiyantu wong Jowo .
33. Ap~parap Pangeran prang. tan pekso e,ngone nyandang. Ngerahake sakabehlng jim setan ku moro prewangan poro telembut kebawah prentah saeko proyo. kinen ambiyantu .poro manungso Jowo. Podho asesende senjoto Tri Sulo Wondho. Kaderekake Sabdo Palon Nayaginggong. '

34. Putro kinasih sawargi Sunan Lawu. Yo Kyai Ageng Brojomurti, yo Kresno yo Harimurti. Mumtpuhi sakabehing laku, nugel tanah Jowo kaping pindho.' .

35. Nyuwun laki rabi ora gantalan ratri mesti amujuti, mundhut sugih katuntun garis. Nyuwun upo mesti sembodo, garis. '*d~ bdo ora gantalan. Bejo begjane sing yakin lan tuhu setyo sabdoniro.

36. Dewane mung siji, kiblate ngalor ngulon. Yen nyembah nvungkemi lemah silo, ngedengkreng karo andremiming. Sambate angge_Iak blabd- r lan olah-olah salah ngematake sayur mentah. Nana_ing ugo biso nyembadani ruwet tentreming wong sapirang-pirang, sing podho nye.mbah reco andhaplang. Cino eling omah-omahe. kabeh pinaringan sabdo yo podho manthuk-manthuk.

37. bendak suro nguntapake kumara kang k.-ton nebus dos_anira. kaadepake ngarsane kang kuwoso. Isih timur kaceluk wong tuwo. pandereke Gatutkoco sak yuto.

38. Idune idu geni sabdane melati sing mbregudul mesti mati. ora tuwo ora enom podho dene bayi wani ora andayani. Yen kerso sinujudan wong tanah Jowo, nanging mung dipilih sopo-sopo. ~

39. Waskito pindho Dewo, biso nyumurupi tahiriro. embahiro, buyutiro, canggahiro pindho lahir bareng ~~edino. Ora keno diapusi merq. o biso moco ati. Wasis micoro. pinter wegig tumompo.
40. Dunung' ono sasikili Redi Lawu sisih wetan. wetane Bengawan banjir. adedukuh pindho Raden Gatutkoco, ai'upo pagupon doro tundho tigo, kaya manungso sing angieiedho.

4i. Yen siro nyebut namine.mesti dadi rame. asmane biso ngramekake sing rame. sing kasinungan eblis wewe.

42. Adhepe pondhok tan karuan kiblate, mulo yo ngerti jantrane jaman. Abondho bandhu nangir]g ora duwe, titihane turonggo asikil limo cacahe. Ulese pasurya Bolo De~ro, gigire nganggo ules Getihe Punto Dewo.

43. Yen katitih playu ne pindho ibere Gatotkoco. Sing nitih yG titihane Bathoro Kresno yen njtih ono wetenge turonggo.

44. Yen krungu asmane podho ~ething, yen wus kenal podho n'landhing, sutihik suthik ditinggal plenang. Begja begjane sing blso nyanding. Biso akas digdoyo tanpo ajl keling. Pindho manungso digdoyo kaya Baru Klinting.

45. Pantes apeparap Bupatine Prang. '-ing wani bakal wirang. Yen nglurug tanpo bolo. digdoyo tanpo aji opo. Lamun menang tanpo ngasorake liyo. Pancen sugih nanging tan abondho.
46. Wasis wegig, waskito, ngerti sadurunge winarah, pindho Dewo angejowantah. Biso pirso embahiro angawuningani jantrane jaman Jowo, ngerti garise siji-sijine umd~ t tan kafepyan susurupe jaman.

47. Mulo den, upadinen sinatriyo iku, wus tanpo bapa lan bibi.lola wuS apupus wido Jowo, mung ngandelake Tri Sulo,landf:!_pe tri sulo putuk, arupo suthik egawe, gegawa pati utowo utang nyowo. Sing tengah slnk gegawe
apitunane lryan, slng pinggir tolak colong jupuk wlnarno.
48. Serik den menehi ati melati, biso kesiku. Senenge anggondo ajejaluk coro nistho, mangertiyo iku coba, ojo kaino-mo, begja-~egjane sing dipundhuti. Ateges ditompo jantraniro. kaemong siro sabroyo.
49. Ing aran Begawan, wong dudu Pandhito, sinebut Pandhito dudu Dewo, sinebut Dewo kaYo manungso, kinen anggep manungso,eming duwe doyo tan opo ditakonl tan dinalekake tan Gno iontro kang disislhake kabeh ~ajarwakakejlentreh arang-arang teramJ adrandang. . '
50. Ojo gumun ojo ngungun. yo iku BathorG Endro kang Per,,bayun. Turase kuwoso mbendhung setan. Idune tirto Brojomusthi. plsuh kaya ngundhuh oiku kang biso paring pituduh. marang jarv!Jane jongko kalaningsun. Tan eno den apusi. marqo biso manjing jroning ati. ono manungso serik ojo gelo.iku dudu wektunlro.ngangsuo sumur Ratu Tanpo Nakutho.

51. Nanging musnae tanpo lari. ing tembe warso Jowo Ngolas Rod.Is. warso Isa Jingo Ngalu molu sing menangi enggalo den lurL Ojo kongas jaman kandas madhepo den marikelu, be_gjo begJane anak putu.

52. Iki dalane sing etirig lan waspodho, ir,g jaman Kala Bendu Jowo. ojG nglarang dalan wong ngluri, wong pangawak Dewo. Dewo pangawak manungso. sing malang-matang ba[<al cures ludes sak broyo diomo kumoro. Ojo kleru Pandhito samudono. Lurinen Pandhito asenjoto Tri Sulo Wondho. Iku paringane Dewo.

53. Lenggahing Pembayun Bethoro Endro; bebarengan jaman angkolo murko soyo ndadt, kono-kene s_oyo bingung, akeh wong kabiluk melu curang, kawulo wani bandoro, buruh wani juragan, juragan dadi umpan, sing asuworo seru sora oleh bolo. Wong pinter diinger, akeh w・)ng pinter podho keblinger. Wong olo podho dipujo, ~vong ngerti mangan ati.

54. Bondho dadi suwoto. pangkat dadi pikat. Sing menang podho sd~ wenang-wenang rumongso menang. sing salah mung ngalah rumongso kabeh salah. Ono bupati soko wong asor ilnane. Pepatih Kepala Judi. slng ati suci soyo dibenci. sing jahat p,'nter anjilat tur oleh. hajat. sing maiing tenguk-tenguk nemu kethuk. pitik angrem sak dhuwure pikulan.
55. Begal podho andugal. rampok keplok. LArong omong ..mitenah sing diomong. Wong jogo nyolong sing dljogo, wong njaluk dUamln. amargo wedi dadi karmane sing jahat. sing jahit. Wong aiik kcpencii.
56. Ono janma ngaku-ngaku dadi ratu, dhuwe bolo lan prajurit. Negarane ambaran saprowolon umbul-umbul warno jenang gulo. Tinengeran gamane cah angon rojo koyo, disulutri gamane pandhe pdndhe wojo. Wong suci dibenci, wong jahat diangkat drajad, Umah dianggep perak, emas dianggep tembogo, dandang diunekake kuntul, wong dosa sentoso. wong becik dikecik, maling lepas giring, sing maling kepethuk mating.
57. Akeh sing tudhung kuwali tumuten, podhQ kepikut ka.tut, janji menehi drajad jebulane ngajak mlarat, pinter micoro sing bener digawe olo puntone podho mati neng pinggir kali, tanpe sirah namung gerribung. .
58. Wanito angger wani. jebule ke.langan laki, Iaki mati tan karuwan kubure tan karuwan dinane, akeh mati tanpo slametan. modin podho ngungsi mergo wedi mati, sing ngurusi wong mati digawe pati.
59. Iku balesane Semut ljo kang kelangan Ngangrang sapto, Iinuweng ing sumur Jolotundho kang kebak isi boyo. Iku tandane mungkure jaman, jaman wong sugih kroso wedi, wong wedi dadi ptiyayi, senenge wong Jahat susahe wong bec.ik.
60. Nan ing manungso podho kuciwo mar o dakwo-dinakwo. Ratu podho rem ugan negoro endhl slng dlpltl lan isenengl. Hera-heru wong Jowo kari separo, Londo Cino kari sejodo.

61. Cino arang eling, keptantrang dibandem gandring, melu wong Jowo sing podho eling sing ora elin podho muring mlayu-mlayu koyo maling keno tuding, mergo tinggal pod o dlgethlng, Bareng ayo mullh podho manJmg.

62. Akeh wong ijirl wong cilik sing eman. Selot-selote mbesukef wolak-walike jamanf wong nyiiih mbalekake. wong utang mbayar. utang. nyowo nyaur nyowo. utang wirang nyaur wir'ang. .

63. Akeh wong dicakot lemut mati. Dicakot semut sirno. Akeh suworo aneh tanpo bolo, prewangan mahiu!< alus podho baris, podho rebut gawe bebener garis, tan kasad moto, tan arupQ Sinq. mandegani putrane Bethoro Endro.

64. Ageman Tri Sulo Wondho. Momongane dadi nayakane perang. Perang tanpo bolo, sekti mandraguno tanpo aji, ngiurug tanpo wadya bolo.' Yen to menang tan ngasoroke, podho sugih tan abondho.

65. Ratu tanah Jowo mung siji nanging podho n awiji. Ageman agodhonq pring nom, atetenger lintang belikf anyekeY gaman ule'-ule wesl lambung. pandereke anyangklong once londo isine lom~ok ~uning. Bumbung wulung tan rosan gineret kreto tan turonggo.

66. Nanging konlbak mosiking dene suworo gemrenggeng pindho tawon gung. sing nganglang Gatutkoco kembar sewu. Suksmane iwak lodan munggah daratan. Kawuto podho suko-suko margo adiling Pangeran wus teko.

67. Ratune nyembah kawulo, pandereke yo podlro n ujo, iku mcmongane Pangeranlng Prang. Sing wis adus wirang nanging ~6ndang, sing ageman Tri suto Wondho, genah kiblate gamblang tur njtng9lang, ora ono wong ngersulo, gemah npah loh jinawi, kolo bendJ wis mlngser/mungkur gantl wuku. Patine jaman Kiamat Kubro.

第二章 ジョヨボヨ預言書の各種バージョンに関して

上記の説明のように、我々はどの宮廷詩人の創作が18/19世紀やその前に本当に編集されたかについて精査するまでになった。以下に述べるとおりである。

1) ムサラル本、詩の形式、は1746/7に編纂されたもので、デマクのカデラグ出身のウィジル王子著「ジョヨボヨ時代」が含まれている。
2) ムサラル本、散文形式、1812年編纂で「ジョヨボヨ時代」と関連あり。
3) ムサラル本、散文形式、1815年編纂で予言と関連しておりさらには「ジョヨボヨ時代」が解説されている。
4) シェク・スバキル・ムサラル本。詩の形式で1851年に編纂された。
5) トゥワンガナの教えのムサラル本、散文形式、1870年にランガワルシタにより編纂された、プラニティワキャ賛成に関連するシェク・スバキル本からの創作。
6) ムサラル本、ラディヤプラワカに関連して散文形式て1872年ランガワルシタにより編纂された。19世紀には「ジョヨボヨ時代」にかんする以下のような宮廷詩人たちの研究が伝わっている。
6.1) 「ジョヨボヨ時代」、詩の形式、1806年に編纂され1815年に発表された。創作者は不明だが、この年にはヤサディプラが生存していたことから、同氏の作とみることができる。
6.2) 「ジョヨボヨ時代」、散文形式、ムサラル本を元二1812年に編纂。創作年は書かれていないが、創作者の名前がないから、ヤサディプラが書いたことも確かであろうと思われる。ウィジル王子の作であることも簡単に推測できる。
6.3) 「ジョヨボヨ時代」、散文形式、パンチャニティの筋に関して1842年にランガワルシタにより創作された。当時ランガワルシタは40あるいは41歳であった。
6.4) 「ジョヨボヨ時代」、散文形式、王家の蔵書に関して1851年頃にランガワルシタによって創作された。
6.5) 「ジョヨボヨ時代(ウェッダワキャ)」、散文形式、1851年頃にランガワルシタによって創作された。
6.6) 「ジョヨボヨ時代(ウェッダワキャから)」、詩の形式、1851年頃にランガワルシタによって創作された。
6.7) 「ジョヨボヨ時代(プラニティワキャ)」、最初の作品で散文形式、1857年にランガワルシタによって創作された。
6.8) 「ジョヨボヨ時代(プラニティワキャ)」、第二作で散文形式、プラニティラディャに関して1861年にランガワルシタによって創作された。
6.9) 「ジョヨボヨ時代(プラニティワキャ)」、第三作で散文形式、シェークスバキルからの創作でトゥワンガナの教えに関して1869年にランガワルシタによって創作された。

これ以外に、ジョヨボヨの本筋から枝分かれした解説がまだ沢山ある。

この「ジョヨボヨ時代」の記述に関して他の文献から次のようにまとめることができる。上記の著書以外にも指摘すべきたくさんの解釈がある。すなわち、カディラグでの1741-1743年の日付が入ったウィジル王子作のジョヨボヨ・キドゥン本。
これに続く同王子の作には表紙に1747年の日付がある。(複数の原本には1749年という表記もあるがウィジル王子は1747年に没している)。この西暦での創作年表記は改める必要がある。さらに西暦とジャワ歴との違いに関して注意を払っていなかった。その違いは74年であり72年ではない。1749年はウィジル王子が没してから二年後であることを忘れてはならない。

大陰暦に基づく「ジャワの歴年」はサルタンアグンが、ちょうどジャワの古代の暦であるサカ歴1555年、西暦1633年に始めたものであり、サカ歴と西暦との差は78年あった。しかし、ジャワ歴は太陰暦であり太陽暦ではないため、この差は一定ではなく徐々に小さくなってくる。西暦1977年にはこの差は78年ではなく68年になる。一方、ジャワ歴とイスラム暦は同様に大陰暦を使っているので一年の長さは同じであり暦年の数値もおなじである。イスラム暦とジャワ歴との間には512年の差がある。すなわち、西暦1977年はジャワ歴1909年でイスラム暦では1397年になる。
まずは、事実と相違する年代の問題が生じることはここまで。先ほど書いたように1749年にウィジル王子が完成したとあるが実際には1747年に同王子は没しているのである。この後の著作はヤサディプラによって正しく継承されたのだろうか?

マドゥラのパヌンパハン作のガルー・キドゥン王時代という本に関しても註をつける必要がある。この本の著作時期は不明だが1796年にスラカルタで創作されたランバンヌガラ本という記載がある。この記載には著者名はないが、ヤサディプラ一世の時代であることは明白である。これ以外にもジャワ歴1733年、西暦1706年に編纂された「ジョヨボヨキドゥン本」に関して注をつける必要がある。この本に記載されている西暦の年号である「1706年」にアンジャル・アニさんは悩まされている。この二つの年号の差がいくらか計算してみるとよい。

ジョヨボヨの預言に関して上記のようにたくさんのバージョン(版)があるので、比較対象に必要な3,4のバージョンを残すだけにし、より詳しいランガワルシタ版の記載事項は、まずは「ジョヨボヨ時代」は歴史的事実と合わないこと、王家の書には年代の記載がないことからここではこの版を考慮しないことにする。

第三章 大衆による理解
デウィスリが1973年の日記の268ページに書いたジョヨボヨの預言に触れた「2000年の世界」に関する記事では、著者によるとカマジャヤは事実上、首長や指導者、チェンディキアワンを含んだ読者の強い支持による同情を得た。スハルト大統領といえども1974年3月31のワヤン芸人との会見で、ジョヨボヨの預言はワヤン芸術に入るのではないかと冗談めかして触れていた。

最近になって、ブリタ・ブアナ・ジャカルタ紙、スマランのスアラ・ムルデカ紙、ソロのダルマニャタ週刊紙(ジャワ語で)、スラバヤのジャヤバヤ週刊紙などこの予言は首都のみならず地方の新聞にもたくさん掲載されている。1976年には著者はスラバヤの日刊ビンタンバルにジャカ・ロダンから始まるランガワルシタの作品の詳細説明を連載した。カラティダからサブタタマに至るまで、ジョヨボヨの預言に関するいくつかの版としてブリタブアナジャカルタに後年掲載した。

実際のところジョヨボヨの予言書に関しては、誰がいつ唱えたか、内容は本物であるか、その背景など、大量の説明が必要である。文章の比較は語句の意味や意図などにまでおよぶ。というのはこの予言書はすでにたくさん交錯しており、不明な点があり、とても不明確であるとはいえ、大衆からの注目度は高い。と、カマジャヤは言っている。

上記に基づき、今回は意味とジョヨボヨ予言書のなかにある象徴に示された真実だけを提示するようにした。その解説書には、大衆に膾炙した歴史学の見地から、将来たくさんの疑問が提示されることは明白である。(それ以外には肯定的とみられるではあろうが)
事実、昔の植民地時代から、政府関係者やオランダの学識経験者たち、それどころか大衆の指導者たちにまでジョヨボヨの予言書は大きな注意を引かれていたのである。

上記デウィスリの1973年の日記の中でカマジャヤは1913-1918まで植民地政府大臣の座にあったピレーテがこの予言書は政府が無視すべきものではないと提案したと説明を与えている。満足させる結果には至らなかったとはいえコーヘン・ストゥアートとJLブランデスが入念に研究を行った。

カマジャヤによれば、オランダ人たちには1972年に出版されたHet Tijd-schrift誌に掲載されたニティプラジャの投稿からこの予言書に関してはやや詳しく知られていた。その後はインドネシアの政治家たちが政治目的のためにそれを利用したといわれている。

故キアイ・ハジ・デワンタラはオランダでの流刑中にDari A.W. Nieuwenhuisが主宰するインディ誌に書いた。また、故フスニ・タムリンは、1934年7月13日付けのフォルクスラドでの講演でジョヨボヨの予言は大衆のなかに生きていると、ジョヨボヨに触れている。彼らの真心が感銘を受けた言葉は「ジャワ島がクロールの葉になったとき、シナ人(日本人=著者註)に負けるが、その長さはトウモロコシの作付期間のみでその後はジャワ人の元に戻ってくる」。

フスニ・タムリンが話したことに関して、どの「ジョヨボヨ時代」がその出典であるかは筆者はまだ迷っている。著者が各種の「ジョヨボヨ時代」を読んだかぎりではこのような文章を見たことがないが、この話は中部・東部ジャワではたくさんの人がこの話をしている。これはサブダパロン編のジョヨボヨ予言書が意味しているものであろうか?
もちろん、こう印象付けられる文章が預言書に存在するのであるが、シナ/日本という単語は出てこない。存在するのはsi Cebol Kepalang ya Cebol kepatiという表現のみであるが、解釈するとこうなってしまうのだ。

著者は、自身で精査した文章では、マウラナ・アリ・シャムス・ザインと会ったジョヨボヨ王の歴史に触れた言葉は一つもないし、かつまた他の編で見られるジョヨボヨ王がマウラナ・アリ・シャムス・ザインに師事していたという一般に流布している話はないことから、その予言にはジョヨボヨという名前を使う権利はないようにおもうのである。しかしこの話は大衆の口から口へと広がりその源は分からない。大衆にその存在がよく知られていたジョヨボヨ予言書の一部であると誰かが言い始めたのだろう。R.Ng.ランガワルシタのに至るまでも間違えてジョヨボヨの予言と言っている。ところが、先ほどのフスニ・タムリンによる予言では、仏教の問題でのバギンダ王の個人的アドバイザーであるサブダ・パロン・ナヤギンゴンが目撃した1478年ころまで続いたスナン・カリジョゴとブラウィジャヤ王の会見から始まっているのだ。
この友好的な会見においてブラウィジャヤ王はイスラムに改宗することを宣言したが、それはアドバイザーが意図したことではなかった。最終的にはこのアドバイザーはスリバギンダと離別するほうが良いと言った。離別の前に、これから500年間 (バギンダと一緒にイスラムに改宗した) ジャワ人たちを隷属させるとサブダパロンは反論した。

サブダパロンはその後クディリのギリンドラワルダナ王に合流し悲劇で幕を閉じた。マジャパヒトへの攻撃の中で、パララトン本とババド・タナ・ジャウィに記されているように、反逆者はバギンダ・ブラウィジャヤ王を殺害したのである。ババド・タナ・ジャウィでは王の死はラデン・パタ/スナン・ギリ(逆である)の行為によるものであり、その一方、実際には仏教徒によりかかれたパララトン本では王の死のみならずデマクについても全く触れていない。またババド・タナ・ジャウィはセノパティがマタラム王になった時代にムスリムによって書かれたものである。今に至るまでこの不釣り合いは感じられるのだ。

ブラウィジャヤ五世がポノロゴやパチタンに脱出したことを伝えているポノロゴやパチタンの歴史の物語とこの歴史の正当性にはいまだ矛盾している。ところが、古い仏教の教えを継続しようとしていたマジャパヒトの王族からの政治的圧力を好まなかったマジャパヒトの王都から脱出したのはブレ・パンダン・サラス(1468年)である可能性が高い。
シナガラの脱出の話は次のようにパララトンに記載されている。ブレ・パンダン・サラス
(以下不明)
ラデンパタの父であるクルタブミ王の死の10年前にブレ・パンダン・サラスがマジャパヒトから脱出したのは明らかである。グリンドラワルダナの抜け穴は既に存在し、ブレ・パンダン・サラスとクルタブミ王にも知られていた。古い仏教時代のシステムを使っていたマジャパヒト王国政府にイスラム化した地方豪族からの税金が上がってこず、国家収入がジャワ北海岸地方のイスラムに改宗した豪族の手に落ちたことに起因して王国の没落がすすみ、後者の王はイスラムに入信することに傾いていたのは確かである。

クルタブミ王のイスラム化に関してはサブダパロン版のジョヨボヨ予言書に見られる。一方、ブレ・パンダン・サラスのイスラム化についてはポノロゴ史にみられる。このポノロゴ史でも脱出したのはブラウィジャヤ五世、クルタブミ王であるという解釈は間違えている。

サブダパロン版の「ジョヨボヨ時代」の節々から、マジャパヒトの都への襲撃に対する復讐の背景があることと昔からこの国で文化的影響を受けてきた民衆のイスラム化の流れに逆らっている傾向があることが明確である。
この分析証拠として、コーランの一節の抜粋がありアラビア数字で書かれたイスラム式墓標(ニサン)で埋められたトララヤ墓地のイスラム墓地があるとここに書かれていることがあげられる。トロウラン地域は歴史的にマジャパヒト王国の都であったと思われるということを知っておく必要がある。トララヤの古代墓地は何年間にもわたりLCダミス教授が詳細調査を行った。
この墓地でアラブ数字を使っていたとしても、表示された年はイスラム暦ではなく当時一般的に使われていたジャワのサカ歴を使っていることにとても興味をひかれる。イスラム暦で記載されたたった一つの俗名ザイヌディンの墓標には874H(西暦1411)の記載がある。トララヤにあるムスリムの最古の墓標にはシンゴサリ王朝のクルタネガラ王の時代であるサカ歴1203(1281)の表記がある。さらに古いムスリムの墓地はアイルランガ王時代の11世紀にさかのぼり、それはグレシク付近(8km)のレランにある。この墓標はクフィ(紋様文字)でかかれていてイスラム暦475年ラジャブ月7日に亡くなったファティマ・ビンティ・マイムン・ビン・ヒタブラという女性のものである。これはジョヨボヨ王を12世紀(1135-1157)にイスラムに改宗させたマウラナ・アリ・シャム・ザインと関係があることは明白である。

イスラムがジャワ島に入ったのは、「秘密本」で知られるジョヨボヨの予言書のもとになったスナンギリ三世の著作の中国とアラブ、ジャワを先祖とするサンジャヤの叔母であるシマ(シンナハ)女王の時代であり、ジョヨボヨの予言書のほかの版からそれよりもずっと前の7世紀末か8世紀初頭であるという点に著者は確信を持っている。子細に検討すればするほど、ムスリムの著者によりしばしば欺かれた源からある種の心配がますますなくなっていくようである。したがって協力者と特定の人たちの方向にその源泉が持っていかれるという我々の危惧はなくなってくるのである。再度言おう。それは目的により、コーランのアンマムル章39-40節にあるようにわれわれが神の慈悲を讃えるか協力者になろうとするかのどちらかである。

ジョヨボヨの予言書の問題に関して、スカルノ元大統領は、公平の女王が来訪することにを公衆の面前での演説の中で言ったことがある。スカルノによれば公正の女王とはインドネシア共和国のことである。
このスカルノの解釈のような正義の女王の理解に著者は同感する。この国の夢とは国民が公正と繁栄を希望することではないか? 単にヘルチャクラに象徴されるその公正の女王の指導者がだれかということにすぎないのではないか? 著者はこの本の中で詳細に処理はしないがその精神は調査研究される必要がまだある。われわれはそれほど賢くないし、意図しない誤解を生じさせる。著者は、読者が各々の解釈を持つほうを好み、壮麗さをもつ芸術を作りだすのだ。読者自身が真実を探す方が良い。あなたも必ず何かを見つける。

彼は我々のすぐそばにいるのは間違いない。ただ、少数の人だけがそれを知り、推量することができるのは少数の人たちだけだ。
だがしかしその真相(位置)は暫定的であるのみ。他の版でもその性質を述べているが、それらすべてに関してあとでこの本の中で調査する。公正の女王とは国民の希望であり憲法であると考えている著者にとって、この列島国の国主になる誰に対しても、常に公正であるように希望するものである。というのは安全で安定的生活が調和のとれたバランスの源であるからだ。公正さを失うことは権威を失うことを導くのである。

第四章 ジョヨボヨ予言書に関する信頼に足る本の概要
R. V.arkono Kamajayaによれば、オランダの植民地時代には特にジョヨボヨの予言に関する本はなく、最初は独立直後に予言の意味とその意図とを含む本が何冊か出版された。
(1)イマムスパルディ著「 ジョヨボヨ予言の裏側」1946初版1950第三版
(2) チャントリクマタラム著「わが革命におけるジョヨボヨ予言の役割」1948年刊
(3) Rタノヨ著「ウェッダワキャジョヨボヨ時代」1960年刊

有名な文筆家は書きかつこれらを批判した者もいた。スクマナ博士はバライプスタカ社出版のパンチャラヤ誌1946-11-01号で、いろいろな書籍を基とした分析を広く深く行った。

モハメトッドアリアルム博士のような他の文筆家はスターウイークリーの1961-9-30号の「Spengler Toynbee Djajabaja」という題で筆者の主観と大衆ひとりひとりの思想的背景の三つの種類とベースのある彼らの予言とを書いている。
政策専門家のウルィン博士は1971年9月30日のシナルハラパン紙に、Bernhard Dahnと「スカルノとジョヨボヨ王の政治思想の基本とインドネシアのナショナリズムの発展」という題で本を比較している。それ以外には、この予言書に関する記事や歴史と暦の解説書など書いている。各種の版や名言などは、ジョヨボヨ王の言葉からとったといわれるが事実性については疑われる。このようではあるが、この20世紀におけるインドネシア大衆の理解として、ジョヨボヨの予言書は同王の在位時代とクディリ王国時代の12世紀にマオラナ・アリ・シャムス・ザインが持ち込んだ、後日ムサラル本と呼ばれるようになった「秘密本」であると、信じられている。

ジョヨボヨ王の師であったマオラナ・アリ・シャムス・ザインが持ち込んだ「秘密本」は以前には、サラティガにあったクリン王朝のシマ女王治世の七世紀末かその後頃にジャワに最初に来たシェッヒ・スバキルの書であった。これは674年にシマ女王が中国に朝貢したという事実が中国の正史に記載されていることによる。この事実は、ジョヨボヨ・シェッヒ・スバキル書(40のsinomと40のdantanggula)が、日刊紙ブリタブアナジャカルタで討論したスマールとトゴッと符合できると言っている可能性が高くするのである。この時にも、ヘリン/クリン王国にヨナポトロ(ヨナバドラ)という有名な僧正がいた。スマール別名バドラナヤと想像される配役がわが芝居の配役にあったろうか。インド渡来のマハバラタの中にはなかったスダとパヌルー作のマハバラタのなかで悔やまれた配役の話。シェッヒ・スバキルとスマールとトゴッの会見が話に実在することは明らかだ。先日のブリタ・ブアナ紙で筆者はサマラトゥァンガ王と同一であるとした。

後述のシェッヒ・スバキル版ジョヨボヨの予言書の中で分析を行う。イスラムが全方位的に動き出した時代の趨勢を認識するため、1956年に出版されたモハメッドヤミンの歴史アトラスと、フィリップKヒッティ著「アラブ世界」という名著にある情報から理解することができる。その翻訳本94ページにはこうある。ムハンマドが没してちょうど百年後の732年。まさにビスケー湾からインダス河までの帝国時代(712)であり、またアラル海から中国国境、ナイル川上流部であった。アダムが地上に降ろされた地点であるフィルダウスをたった一度しか見ようとしかしなかったというムハンマドの若年時の不明瞭な話によると当時ダマスカスは強力な帝国の首都であった。市の中心部にはウマイヤ王朝のとても美しい宮殿が建てられ、南側には万年雪を冠したヘルモン山まで達する豊かな平原を見渡すことができた。

ここで少しだが、18/19世紀のジャワの詩人によってまとめられた「秘密本」とジョヨボヨ時代で見つかった予言の内容の経緯に関する複数の著者の見解を抜粋する。ジョヨボヨ王が死の直前にイスラムに入信したということは不思議ではない。ムプ・パヌル作のアラビア語がたくさん入ったガトゥットカチャスラヤ詩に関する文献に見ることができる。1960年スチプト・ウィリャトパルタ博士による。ジョヨボヨではないとも思われる詩人の文献はマオラナ・アリ・シャムス・ザインの神秘学の知識を理解でき、もし彼がイスラムの信仰告白の言葉を聞いていなかったら??
それはジョヨボヨの予言書にある文章にも示されている。「われわれがイスラムを見た時はすでにムハンマドの教えに近付いているのだろう。このような人はジョヨボヨ王で…

上記の私の見解ではあるが、それは、パンジマシャラキャット(「大衆の旗」の意味)誌に掲載されたバンドン教育大学卒のニア・クルニア・ソリハーによって貶められている。

第五章 ジョヨボヨ予言書に関する予言の解釈法
予言書を理解するために、人は書かれた文章ではなく隠された言葉を探さなくてならないものだ。この隠された言葉ですべてを書くことはできないから、書かれている文章に注意するのはもちろん必要なことである。書かれている言葉は時々隠された文集を理解する橋渡しになる。

暗喩ではない予言もあり、それだけで十分理解できる。すなわち隠喩されている予言と、Serat Jaka Lodhang, Kala Tidha, Sabda Tama, Sabda Jatiなどに見られるようなランガワルシタ作の予言を含む明確なものとがある。

ジョヨボヨ予言書の種々の版にも同様なものがみられる。通常、上記の予言はすべて覆い隠されている。その意味を知るためには、まずその覆いを取り除かなくてはならない。この多いの取り除きはだれにとっても簡単ではないから、ランガワルシタは次のように言っている。「誰でもではないが(この予言の)意味に会えることができるものは、選ばれた者でなくてはならず、時代の流れについて展望を持っており、神の公正さと正義を常に心に保ち、神を心に持ち正直であること。こういう彼らが理解できるようになるだろう」と。

そのためには広く意味を持つ中間の知識を必要とすることは言うまでもない。Serat Jaka Lodhangにある例では、木の枝で首つりしたJaka Lodhangという名前の一風変わったひとが登場する。これが難しい。まだ暗号の年を示している続きの文章をよんで初めて、何のとし年を指しているのかを理解できる。

この年に78年を加えると西暦1948年ということになる。この年には悲劇があったか? 「マディウンの悲劇」があった。当時インドネシア共和国を裏切った人間性というものを置き去りにした人たちFDR/PKIがいたことを忘れてはならない。それゆえgambaran gunung mendakiは、リンガジャティ協定とレンヴィル協定の影響があった共和国地域にFDRの反逆が加わったという意味になる。

雑誌「ジョコロダン」にははっきりと、独利宣言文が載った紙切れだけではなく、どうして正副大統領になれたか?インドネシア独立宣言者の役割がある。上述の筆者が書いたランガワルシタの予言に関してこの続きは別稿「インドネシア共和国政治の一面」をご覧ください。

しかし、この秘密の年号を理解するのは簡単ではない。サカ歴1860年を西暦1919/20年と解釈する人もいる。その関係は祖国での共産党員の行為の方向性と同じである必要があったが、その著者は論理的にデータを解釈することができなかった。彼は憶測を除いただけでありその覆面をすべて取り去ることができなかったため最後には間違えてしまった。また、独立前における共産党の反逆は1928年に発生している。

ランガワルシトの予言はジャワのサルタンアグンの年代に合わせるという秘密の年号に関する誤解の例はまだある。たとえばジョコロダン誌にある「サカ暦1877年」は西暦1945年と解釈されている。一方、二つの秘密の年の印を与えた表紙に書かれた警告と同じ時代にあるとプジャンガは暗示した。サカ歴1877年は1870+78 = 1955年に他ならない。どの年が第一回目の総選挙の第悲劇を指し示しているのか。第一回総選挙の先行きを示しているのか?寛容の心を持ち国家元首の在任を確定するものに他ならない。"Jaka Lodhang sabdo malih"の文章から推測するそれを支持する文章の形での寛容をその前に与えたのではなかったか。ジョコロダンはその地位に在籍することを得て1955年の総選挙で国家元首になった。しかしながら、この話はなんとなく腹に納まらないのではないか?統一国家の夢は、ジョコロダンの序文に描かれた1945年の夢の骨子とはピタリ一致しない。独立はほぼ成し遂げられた。このインドネシアの独立の訪れは、"Jaka Lodhang gumandul, praptahing pang ngethingkrang srumuwus.... dstnya"と称する文章の一列目にすでに書かれている。

アッラーの指示と強さを求めつつ、宣言した何かが実現することを希望しつつ、ジョコロダンは大枝で首つり自殺を遂げた。

しかし、そのあとで見られたのは、その「山」が逆にへこんだことであり、崖が反り返ったり妙なことではないか。もし、その崖が警告する象徴だと知っていたなら妙なことではない。どうして崖が反り返るのだろうか?それは1919-20年に起きた共産党一味の行動ではなく1948年に起きた行動であったことは明らかである。その悲劇は、また一つの時代といわれているのに違いないものだろうか。独立時代である。支配時代ではない。(1919-20年は一つの時代とはいえない)。しかるにジャワ暦の年月を使った答えは合致しないのである。

この誤解はまだ現在まで人を毒している。この本やブリタ・ブアナへの小生の投稿記事が掲載された後、大衆の理解が変わりこの文における分析と合致することを希望するものである。

いずれにせよ柔軟性はそれを否定する年を暗号だと評価し、我々は正しい歴史的事実に基づく論理を探さねばならない。

「ジョコロダンがその地位を復活させた」という文章は、その前に彼がその地位を再び得たという意味であり、リンガジャティ協定とレンヴィル協定の悲劇を形作っ友の時代があるという影響を払拭し、共和国の7つの地域にオランダ軍の攻撃をやすやすと招いてしまった呪われるべき1948年の共産党員の行為である。二番目の復活は共和国独立(1949-12-27)という神の恩恵であり、またWiku-Sapta-Ngesthi-Ratuの年であったゆえ、ジャワの修行者の言葉ではもう一つの1950年と評価しなくてはならない。この「修行者」とはワリソゴを示すこともできる。これは1957年という数字の方に話をすすめることを意味する。スカルノの時代であり、ジョコロダンが1957年2月21日に発表した憲法の概念であり、憲法の基本に相対する国会と相互扶助内閣があることを意図した大統領が含まれていた。

この大統領がもつ概念は、良い結果をもたらさなかったのと政治的不満足を生じさせた努力を見せようとしたと見られる。宮廷詩人が「Hestineng munh kelakon!継続的な努力は報われる」と忠告したのではなかったのか?残念ながら報われた後、それは1959年7月5日に発布された45年憲法への復帰宣言の後には、ジョコロダンは、憲法の精神にのっとって大統領から目をかけられた赤の人たちの政治スパイにより葬り去られた。1948年当時は国家反逆者である共産主義者はまだ淘汰されておらず、1965年9月30日事件(スカルノ失脚)の年に中傷という手段を用いて復活しようとしたのである。有識者とスカルノ=古い時代に涙を。有識者の涙の言葉を。この警告はSerat Kala Tidha point 3に見られる。

イスラム世界に関する隠された予言も例がたくさんある。たとえば、ハディースに示されている事項である。ハディースでは我々にムハンマドが世界最後の日までに発生する10の大きな出来事について教えている。その他には、不信心者の大嘘つきである右目が見えないという形で描かれた悪魔(Dajal)が出てくる。アダムから世界最後の日までのあいだ、悪魔に起因する悲劇以外には、悲劇というものはないとムハンマドは言っている。スラバヤのキアイMundhir Nadhir が1965年に、シャーヒーハディースと1937年に中東で発行された本から編集したFafirru llallah本では、この悪魔はまだ鉄の鎖で枷を付けられていると説明している。干ばつが三年間続きトルコ戦争が勃発すると、この悪魔が鉄の鎖の枷から解き放たれる時は近い。アブバカルシディは、ハディスでは、東方であるホーラサン地方(イラン)で悪魔が復活しやがて西方に移動しイエルサレムに到達するというムハンマドの言葉を基にして説明を与えている。

イエスキリストは信仰篤い人たちを救済するために羽根のついた天使の乗り物で天から下ろされる。ムハンマドの言葉によると、天使は毎回頭を下にして下ろされる。あたかもお産の時のように。イエスの息を嗅いだすべての不信心者は死ぬ。

こちらでも、何かが隠されて意味が書かれた奇妙な事実が見られる。鉄の鎖で枷をはめられた悪魔を象徴化したのはいったい誰なのだろうか。私見では、大げさに言うのではなく、それは1917年10月の革命で登場したロシアの共産主義者と同じと思われるのである。そのソビエトは今でも国際記者が「鉄のカーテンの後ろの国」とつけた国ではないか。誰が枷をはめるのだろうか。神様自身か。しかし将来、人間たちを試すためにその枷から放たれるのだ。本当に徳を持った彼らとうそつきたちなのだろうか。誰が本物の悪魔なのか、我々が見えるようにムハンマドの遺言にも見られるのである。アル・カフィの章の最初と最後の10節を見よ。

もしその悪魔がUSSRだとしたら、だれがハディスの中で警告したようなImam Mahdiとイエスキリストなのか。ムハンマドの予言を見る必要がある。世界の終末以前でその特徴を広めようとする大戦争が勃発する前に、その戦争は戦場で撃ち合う両国の大軍の間でのものであり、第二は同じ標語(平和、ペン)を使う。

予言はこのように明白であり、暗号は一言も存在しない。しかしはっきりしているのは、天使の第二の翼に乗ったイエスキリスト(象徴)の援護を得た信仰篤い人たちと悪魔の間での戦いであるということだ。毎回天使の頭が下向きになっているように見せるということで爆撃機を想像するのは間違いだろうか。この爆撃機の特徴はまちがいなく毎回爆弾を投下するまえに先端を下げることである。イエスの息を嗅いだすべての不信心者は死ぬ。

イエスの息の匂いとは、現代人たちが作った毒ガス弾を想像させる。

書かれている以外の文章は説明を要するが、隠された意味にも解釈が必要である。この悪魔とう言葉は現在のUSSRの役割と同一だと見抜いたのである。

ソビエトは無神論者と理解されるあるいは共産主義者の一つの大国であり、鉄のカーテンの裏側の国と揶揄される国か?ソビエト以外にそれがあろうか?

NATO加盟国のトルコの支配するボスポラスとダーダネルス海峡を通過して黒海から地中海に向かう、軍艦を縛り付けているソビエトが現代最後の悪魔であるということは言を待たない。もしそうなら、だれがImam Mahdiとイエスキリストなのかという疑問が出てくる。前出の戦場で攻撃しあう両軍とはまさしくNATOとワルシャワ条約国軍を意味しているのであろうか。

悪魔が共産主義者ソビエトと同じとするなら、イエスキリストはNAToに加盟しているキリスト教国である。ゆえに、言葉の意味通りにキリストが降臨することは目撃できない。精霊のメガネを通す以外、イエスの降臨は目撃できないと旧約聖書にも書かれているではないか。精霊のメガネもなく更にはキリストもいないのだ。最後には我々は精霊を解釈することを警告しなければならない。私はムスリムとして、クルアンのメガネを通して再来した神の使いとしてこの精霊を解釈している。悪魔の意味を理解するために、アル・カフィの章の内容のうち学習すべき最初の10節でムハンマドが合図していないだろうか。ハディスにも最後の10節で語られている。

読者諸氏、クルアンの中で自分で解釈を探してみてください。これが精霊だからです。この全ての予言は大部分が象徴であるであるからだ。後日、我々は悪魔などについて語られたPranitiwakya版の「ジョヨボヨ時代」で明らかにする。

これ以降の文章で、筆者は、意味が隠されていない予言の例を提示する。

Andjar Any氏などが書いた予言書はこのように説明している。意味が隠された予言の作者は普通、まだ発生していない出来事を知っている人であると理解されている。

H.N.Brailsfordの著書「鋼と金の戦争」のように、その分野における専門家が予言書を書いた。この本で著者はあきらかに1914-1918年に世界大戦が勃発すると予言している。

Ernt Reinhardの著書「極東の帝国主義」では太平洋戦争が没パするという予言が含まれている。同様に、ミュンヘン大学の著名な地政学の教授であるKarl Haushoferは「太平洋の地政学」を著した。他に太平洋戦争を予言した人は英国海兵隊のHeetor Bywaterであり、「太平洋の海上覇権」と「太平洋大戦争」という本を著している。

これらの本はすべて1930年代より前に書かれており、太平洋戦争勃発のはるか前のことである。同様に、大衆の面前での政治演説に現れるスカルノも、中国と問題を詰まり始めた大英帝国と米国、日本に関して、しばしば語られている。将来、経済と軍事両面で太平洋と東の世界を牛耳ることになる中国でどの国が権利をえるかであった。そのために、第三者が愚図具スせず、死に物狂い戦争の中で太平洋戦争へと続く道を切り開いたのである。インドネシアは太平洋にとても近い位置に存在する。生臭い血の匂いのする太平洋の波が衝突することから逃げることはできなかった。この時、もっとも緩んだ帝国主義の鎖が折れてインドネシアは独立することになった。

スカルノの予言も、悲劇が現実になるはるか前におこなわれたが、現実になってしまったとAndjar Anyは語る。このスカルノの予言は、ジョコロダン本の中で詩人ランガワルシタが書いた警告による霊感であると見られる。事実第二次大戦後それは本格的になった。インドネシアは独立国となり、オランダ支配の枷から自由になったのである。すなわち共和国独立宣言に1949年12月27日に署名された後、ただちにジョコロダンと続いて1952年にはクラテン県トラチュク郡パラール村にある詩人ワンガワルシトの墓地も修復された。1955年にはスカルノ大統領もここに参詣したのである。

上記の予言は、実際に起こった出来事からの計算によっている。当時の事実は鋭い切っ先の分析と関連し、影響を与えそうな事項は要約された。したがって、事実と無作為な計算と関連する経験より、問題の分析を基礎とした。

無作為と事実を拒否したことから、予言の一種類と考えられる方程式の計算結果でも、はっきりとその絵が見えてきた。意味が隠されているのではなく書かれている本の読者になった。

通常超能力のような力を体に秘めている力を持っている占星術の専門家以外の一人の予言者が未来・遠方透視能力を持っていた。未来を透視できる現代の言葉では科学的洞察力と呼ばれているものである。星占いを専門とする天文学者にとって、あたかも自然の生命に対して影響を与える星座の位置を見ることは、歴史の本を読むようなものであり、その時にかれが星の位置を観察すれば、人間の生命に対する影響を知ることができるのである。

当時有名であったアメリカ人の予言者ジーンディクソンは、ジーンディクソンが早朝教会で祈りをささげたあと、ホワイトハウスのイメージを見たと1952年に語った。その後に出てきたイメージは更に長くはっきりとしたものであり、そのあとには数字を覆い隠そうとするようなひと固まりの黒い雲と1960という数字が浮かんだ。その2番目のイメージは最後にはろうそくのように溶け、ホワイトハウスの上にぶちまけられた。次いで、今までのイメージの前面に一人の大柄で青い目をして髪の毛の濃い男性のイメージが湧いた。これ(1956年)から4年後、ジーンディクソンは記者会見の席上、1960年の大統領選挙では、青い目をした髪の濃い民主党の人が選ばれるだろうと予言した。そして、大統領は暗殺されるだろうと。この予言は1956年5月13日付のパレード誌に掲載された。この予言はぴたりと当った。1960年の大統領選挙ではJFケネディが大統領に選出され、かれの風貌はジーンディクソンの予言通りだった。青い目をして髪の毛が濃くさらは民主党出身であった。そのごケネディは暗殺された。1966年1月2日にジーンディクソンは、1966年末ころにはスカルノはインドネシアで拝見を失っているだろうと予言した。さらに、共産主義者たちはインドネシアの土を踏んでいないだろうと予言した。これらはAndjar Anyがその著書で言っていることである。

イスラム教徒として、なにごとも神の定めという考えは我々の思考に優先させてはならない。あたかもmengerti sakit belum diceritakan。ジャワの国の歴史にあるスナン・ギリの言葉である。

たしかに悪魔は我々を誘惑することができ、正確に物事を教えてくれる。たとえそうであっても、我々はこのような誘惑に乗ってはならない。神は正しい指示を与えられん。このような態度でいれば、魑魅魍魎に属する真理である他の権威で神の権威を競い合うような人間にはならないのである。

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2009-05-06 作成
2009-09-29 追加
2009-11-12 追加
2015-03-15 修正
 

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