嗚呼、インドネシア
41話 チャンディ ・プナタラン(Candi Penataran)
 2007年12月09日日曜日、マディウン。朝五時に目覚ましがなって目が覚めた。サイクリングに出かけよううかと思ったが、眠いのでそのままベッドにもぐりこんでしまった。

 目が覚めたら八時過ぎ。朝ごはんを食べながら一日をどう過ごそうかと考えていたら、どういうわけかpemasaran (マーケッティングの意味)という単語を思いついた。続いて、音が似ているpenasaran (どうしてもやりたいの意味)から、penataranという単語が頭をよぎった。
 そうだ、まだ朝早いから、往復の時間は十分ある。ブリタールにあるCandi Penataranに行ってみようと思いついた。ブリタールはマディウンから東に約100kmの距離にある町である。

 朝9時過ぎのスラバヤ行きのpatasバスに乗って、Kertosonoの踏切を渡った三叉路の先(Purwosari)で降りる。距離は半分なのにバス代はもちろんスラバヤまでの分を払わなくてはならなかった。
 すぐにブリタールの隣町のトゥルンアグン経由トレンガレッ行きのバスが来たのでとりあえず乗る。このバスはクディリ市のバスターミナルには入らず町を迂回してそのまま南下する。車掌に尋ねたところ、ブリタールへの乗り換えはNgarotoが便利だとのことだったが、この乗り換え地点はトゥルンアグン町の北方5kmの郊外にあるところだった。ブリタールについたのは12:30頃であった。話に聞くとこの町にはタクシーがあるとのことであったが、実際にあったのはojekのみであった。
 バスターミナルから走り始めて五分もしないうちに豪雨に阻まれてしまった。運転手のポンチョの後ろを体にかけるも、雨は容赦なく降ってくる。やむを得ず街中の食堂で雨宿り。運転手にも昼食をおごってやる。
 小降りになったので13:45にCandiに向かい出発。約20分で到着。雨は相変わらず降り続いていた。

入り口の管理人室 入場料は寄付の形でRp10,000

管理人室前からCandiを見る

奥のチャンディ。ピラミッド型の台座の上の建物はない

塔。入り口からチャンディの中央に作られている。風水を邪魔するような位置である。

チャンディの頂上からみる。塔は北東の位置にあった。
左の写真の主神殿の中央位置は
S8 00.978 E112 12.584
であった。
この神殿の頂上は四角形で約20mx15m。標高は約300m
 このチャンディ遺跡は王族の礼拝のためにクディリ王朝時代に造られたといわれている。 構造物のそこここに見られる赤レンガは、そのサイズからマジャパヒト時代のものと思われるのである。また、Petirtaanと呼ばれる沐浴施設がないこと、宮廷のあったクディリからは約50kmもあり、一日の徒歩ではとても行き着けない距離にある。
 さらに不思議なのは、チャンディは一般的に主神殿に向かう通路を軸として左右対称の配置になっているが、このチャンディでは一番下の写真にあるように尖塔が中央通路を塞いでいる。まるで風水で邪魔をしているようである。
 尖塔の四辺がチャンディの方向とは数度異なるのである。地震などで構造物の位置が変わったのかもしれないが、このチャンディにはいる入り口の中心をチャンディからの光が通過していたことから、建設後に地震や地すべりなどで位置が変わったとは思えないのである。

 雨が降っていたためスケッチができなかったのが残念である。次回の訪問と調査を楽しみにしているのである。今あまり色々とやってしまうと老後の楽しみがなくなってしまうから、止めておこうかなとも思っているが、走り出した趣味はなかなか止めることができない。

チャンディプナタラン再訪
 さて、その翌週12月16日に再挑戦したのである。朝早くマディウンから自動車で出発し、11時前にはチャンディに到着した。事務所の自動車を借りて、亀山氏とバウチスタ氏が同行したのであった。以下の写真には両氏が撮影した分が含まれている。
遺跡の入り口から奥を見る

入り口左側の石(Dwarapala)。眼の部分が壊されていた

左側の石像の裏側

入り口右側側の石像。眼の部分が壊されていた

右側の石像の裏側

復元工事中

復元工事中

復元前

復元前

復元前

Candi Angka Tahun内部のガネッシャ

Candi Angka Tahun 塔遠景

塔の南側のGayatri Rajapatni像

塔の南側のGayatri Rajapatni像

塔北側の観世音菩薩

塔北側の観世音菩薩

Candi Angka Tahun塔の南側

Candi Angka Tahun塔の北側

Candi Angka Tahun塔の東側

Candi Naga

Candi Naga

Candi Naga

Candi Naga
主神殿

チャンディ・プナタランの解説
引用 http://id.wikipedia.org/wiki/Candi_Penataran

 チャンディ・プナタラン、別名チャンディ・パナタランあるいはその元々の名チャンディ・パラ (Candi Palah)は、東ジャワ州Blitar県Nglegok郡Penataran村に位置するヒンドゥー教の寺院群である。この寺院は東ジャワ州では最大で、Kelud山の南西山麓の海抜450mでブリタルの北に位置している。寺院に保存されている碑文から、この寺院はKadiri王国のSrengga王の時代、西暦1200頃に建設され、1415年頃のマジャパヒト王国のWikramawardhana王の時代まで利用されたと考えられている。

 1365年に書かれたDesawarnana別名Nagarakretagamaでは、この寺院は、東部ジャワを巡幸したHayam Wuruk王が訪問したPalah聖堂として呼ばれている。

 1995年にはこの寺院が世界遺産の候補として挙げられた。

1. 祠堂群集合体の解説
 この祠堂群は北西から南東に伸ばした線にそって建てられたいくつかの建築物の集合体である。主神殿の東側の裏側にはKelud山を水源とする川が位置している。この寺院群は線形に構成されていて、いくつかの付属神殿やあずまやが主神殿の前に位置している。この寺院配列方法は、主神殿が広場の中心にありその周りを付属神殿が取り巻いているといった同心円状の曼荼羅方式で作られたCandi Sewuiのような中部ジャワのものとは異なっている。
 チャンディプナタランにおけるやや規則を外れたような直線的な伽藍配置は、KediriからMajapahit時代に発展し、そのごバリの寺院の伽藍配列に景使用された、東部ジャワの特徴である。
 チャンディプナタラン寺院群はその面積12,946m2であり、中心線は北西から東あるいは東南に向けて通っている。東南の部分を除いた寺院の敷地は、二列の壁で三分割されている。わかりやすく言えば、寺院群の敷地は前庭、中庭、裏庭に分かれている。チャンディプナタラン寺院群の伽藍の配置構成は独特であり左右対称ではない。これはこの寺院群が一時期に建設されたものでないことを意味している。以下は逐次紹介。

(1) 前庭
 寺院群の北西に位置する正面の入り口から前庭への入口は、サカ歴1242年(西暦1320年)という年号が彫りこまれた門番の役目をする二体のDwarapalaの神像に挟まれている。現地の人たちはこの神像をReco Pentungと呼んでいる。この神像の台座に彫りこまれた数字をもとにして、歴史家たちはMajapahitのJayanagara王の治世にCandi Palahが開山され国家寺院となったと結論付けている。
この二体の神像の東側には低温焼結煉瓦(batu bata)でできた門の残骸がみられる。

(2) Bale Agung 舞台
 入口の門を通って、チャンディプナタランの最前部であるBale Agungに至る。この構造物は前庭の北西部に位置しその位置は少し前に突き出ている。構造物全体は天然石で壁はまだ健在であり、南東側に位置する二基の階段を含め四基の階段があるがゆえに、この構造物は南東に向いていると印象付けられている。一方、北東と南西に側に位置している他の二基の階段は横の入口への階段として印象付けられている。東側の壁を分割する入口の二基の階段がある北と南の壁は三つの部分に分割されている。
 Bale Agungの本体の全周に蛇の彫刻が施されている。蛇竜の頭は構造物の左右端に位置している。各々の階段はmahakalaを形どった守護神像が安置されている。Bale Agungは、長さが37m、幅が18.8m、高さが1.44mある。その上には、建物の屋根を支えた木柱の基礎と考えられている礎石が各隅に存在する。N.J Kromによれば、Bale Agungはバリと同じように高僧たちの会議場として利用されたという。このbaleあるいはあずまやは木製の柱と、すでに腐敗して消滅してしまった、たぶん棕櫚あるいは柾で覆われた屋根が掛けられていたのは確かである。

(3)Pendopo Teras テラス舞台 
 この構造物はBale Agungの南東側に位置している。Pendopo Terasはすべて石造りであり、長さが29.05m、幅が9.22m、高さが1.5mの四角形をなしている。このPendopo Terasは宗教儀式の際のお供物をささげる場所あるいは王や王族の休憩場所として使われたのではないかと考えられている。西側には二基の階段があり、この階段は東側の壁にはつながっていない。各々の階段の左右の手すりには、片膝を折り片方の手には槌をもち、翼のある小さな巨人がみられる。手すりは美しいボーダー柄の彫刻が施されている。
 Pendopo Terasの構造物にはサカ歴1297年(西暦1375年)の年号が振られている。この年号の彫刻は、植物の蔓の形を持った装飾と混じっているので探すのは少し難しいが、その位置は東側の壁の上の部分の模様のところにある。Bale AgungのようにPendopo Terasも尻尾が互いにからみつき、建物の柱の間で首を持ち上げた蛇の模様で装飾されている。この蛇は少し頭をあげており首飾りと額には毛が生えている。Pendopo Teras の壁面には、Bela-beluとDami aking、Sang Setyawan、Sri Tanjungの物語で知られる大衆文学に登場するBubhuksahとGagang Aking関する話が語られている浮彫がみられる。

(4) Candi Angka Tahun 年号寺
 Candi Angka Tahunはサカ歴1291年(西暦1369年)の年号がある構造物である。東部ジャワ州の人たちには、candi Pranbanan寺院群の中でももっとも有名な構造物であるCandi Brawijayaの名前の方がよく知られており、このcandiはBrawijaya師団の象徴として使われてもいる。この内部空間にGaneshaの像が安置されているためCandi Ganeshaと呼ぶ者も時々いる。この位置はPendopo Terasの南東側約20mである。寺院西側にある入口と階段の手すりは、その底部と同様に三角形がの積み重ねの中に花の形をした装飾ボーダー柄の大きな浮き彫りで終わっている。堂内には蓮華座の上に座った形での一体の石像のガネッシャがある。堂内の上部はMajapahit王国の紋章(Surya Majapahit)のある屋根石で葺かれている。すなわち、三角形の積み重ねの中で直線と光の放射に囲まれた円である。Majapahitのこの紋章は、王国の象徴として少しは異なるが東部ジャワの他のいくつかの寺院でもみられる。
 Surya Majapahit
 Candi Angka Tahunは他の祠堂と同じように、基台と呼ばれる下部と祠のある空洞(garbagriha)で構成されるの胴と呼ばれる中間部、それに立方体の形状をしている頂上部から構成されている。王冠にあたる部分には大きな装飾が施され、胴体部分の各々の壁面には、その上部には畏怖させるkalaの頭部の彫刻の付いた偽の扉がある。このような生物の頭部は、東部ジャワでは森の王者を意味するBanaspatiとしばしば呼ばれるkalaの頭部であると呼ばれている。壁龕部の上にkalaの頭部を設置して、祠堂群に邪悪な霊が入り込まないように脅すことを意図している。これ以外には、北西の端に入口と基礎部分が残存している低温焼結煉瓦でできた壁の残存部がこの周囲にみられる。この前庭にある構造物すべては安山岩で構築されている。このCandi Angka Tahunの北東側に位置する平面で見て長方形を形状をなす二基の基礎を除く。この祠堂の左側にはGayatri Rajapatniを具現化した神像と解釈されている女性の像がある。

(5) 中庭 (Halaman Tengah)
 Candi Penataranの第二区画に入ると、祠堂群の入口にあったDwarapalaより小型のDwarapalaの神像が二体ある。入口のDwarapalaのように、このDwarapalaにも、入口のDwarapalaより一年古いサカ歴1214年(西暦1319年)の年号が台座に彫られており、これらもJayanagara王の時代に作られたものである。この中庭、第二区画、はこの中庭内を縦に伸びる煉瓦の壁で二つに仕切られている。この壁は現在まだ見られる基礎部分しか残っていない。北東側には石と煉瓦でできた六つの建物の残滓がある。そのうちの三つの基礎は煉瓦製で、二つは基台部分だけ、残る一つはその屋根部分がない祠堂である。最初の基台は、特に石でできているもう一つの基台に比べて大きな煉瓦と石で作られている。

(6) 龍の祠堂 (Candi Naga)
 中庭の中に、幅4.83m、長さ6.57m、高さ4.70mの基礎と胴体部分だけが残っているCandi Nagaがみられる。Candi Nagaの名前の由来は胴体部分の周囲に蛇の模様が彫刻され、その一つ一つが構造物の角と中ほどの三方向の壁、入口の左右の壁に位置する王のように華麗な服を着た人物の九つの浮彫がある。これらの女神たちは、その着用している衣服と装飾品の特徴によると天人とみられる天国の生き物を描いている。片手には鐘を持ちもう一方の手は、祠堂の胴体部分の上部に巻きついた龍の胴体を立った状態で下から支えており、これが構造物の柱になっている。祠堂の胴体部分の壁は浮彫で装飾されている。祠堂の入り口は北西側にあり、ボーダー柄で装飾された手すりがある階段を有し、その寸法は幅4.83m、長さ6.57m、高さ4.70mである。9人に支えられている龍の絵は"Naga muluk sunangga jalma"というcandrasengklal符牒であり、Kertanegaraの治世のサカ歴1208年(西暦1286年)を意味していることはすでに伝えた。

(7) 煉瓦製の基礎 (Pondasi Bata)
 中庭には、南西側に突き出し太部分から入口担っていることが知られる南西を向いた印象的な煉瓦製の基礎がみられる。南西側には二か所の建物の残骸、その一つは10 x 20mで、もう一つは北東側の基礎と同じ特徴を有するものがみられる。この中庭の西の隅にはもともとの祠堂から外れた扉の鴨居か集められている。 この鴨居のいくつかには、サカ歴1245年、1294年、1295年とはっきりと読み取れる年号が記されており、もう二つの鴨居にはサカ歴1301年の年号がある。この近くにサカ歴1240年の年号を付した扉の残骸があるため屋根を有した門の残骸であろうと思われているる第三の庭への入口にはサカ歴1242年の年号が入ったDwarapalaの神像がある。

(8)後の庭 (Halaman belakang)
 二体のDwarapalaに護られたその基礎しか残存していない門を通過すると、東南の端に位置しており、寺院群の最も奥にあり、他の部分より高い土地にある三番目の庭に至る。ここは最も聖なる場所であるという理解がある。ランダムに建てられた約九つの建物の残骸がこの庭に存在する。すでによく知られている二つの祠堂は主神殿とlinggaapalaの形をしたPalah碑文である。北西端にそって、石あるいは煉瓦でできた基礎と台座から構成される5つの建物の残骸がみられる。そのうちの一つには祠堂の話が浮彫で示されている。

(9) 主神殿
 この第三の庭には7と19mの高さを有する3段のテラスからなる主神殿が存在する。その各々の角の階段には、サカ歴1269年(西暦1347年)の年号がその台座に入った二体のmahakalaがある。第一段目のテラスの壁面にはRamayana物語の浮彫がみられる。これを読み取るためには北西側から反時計回りに回らなくてはならない。第二段目のテラスの壁面は、その話が時計回りに展開する、Krsnayanaの物語の浮彫で埋め尽くされている。一方、第三段目のテラスには龍と翼をもつライオンの浮彫がある。第三段目のテラスはほぼ正方形の形状を有しその壁面は翼をもつライオンと翼をもつ龍の像が彫られている。その頭部は前を向いてはいるが、翼をもつライオンの後ろ足は座っている状態であり、前足を上に挙げている。
 この庭の南西の端に、二か所の建物の残骸がみられる。一つは以前オランダ人がKlein heligdom (小さな女神)と名付けた、崩壊してから間もない石でできた小さな祠堂である。この祠堂こそ開山法要(upacara pratistha)を通して、Palah碑文と同時期に建設されたものであるとみられている。もう一つは煉瓦の基礎が残っているだけである。この建物の残骸は南西を向いている。この残骸の一列上にPalah石碑と呼ばれるリンガが立っている。祠堂群の地域にはサカ歴1337年(西暦1415年)の年号が入った池が祠堂の裏側の南東側の川の近くにある。

(10) Palah碑文
 ”tandhan krtajayayahya / ri bhuktiniran tan pariksirna nikang sang hyang catur lurah hinaruhara nika”という文章から、「災害で四つの提案が消え去ってしまわなかったことに喜んだKertajayaを知らせる」ことをPalah碑文は述べている。この喜びにより後日彼はMpu AmogaswaraあるいはMpu Talaluhと呼ばれ太人によってliggapalaに書かれた碑文を発出する命令を下した。彼が大王であった時毎日Palah女神にこもることを好んだという意味の“sdangnira Cri Maharaja sanityangken pratidina i sira paduka bhatara palah” と碑文で述べられているように、上記の建物に彼はPalah女神に捧げるための機能を与えた。

2. 歴史
 Candi Penataranの本来の名前はPalah碑文に述べられているようにCandi Palahであり、1190年から1200年にかけてクディリ王国を支配したSri Maharaja Sri Sarweqwara Triwikramawataranindita Crengalancana Digwijayottungadewaの称号を持つ Crnga (Syrenggra)王が、しばしば噴火するKelud火山からの危険を避けたり災いから逃れる為の祈祷を行う場所としての山岳寺院として、サカ歴1194年に建てたものだと と信じられている。Mpu Prapancaが書いたナガラクレタガマは、1350-1389年にマジャパヒト王国を支配したHayam Wuruk王の、山の守護神Girindraとしてのシヴァ神を具現化したHyabg Acalapatに対する祈祷を行うためにCandi Palahへの行幸について解説している。
ナガラクレタガマで呼ばれているGiriindraとGirindraあるいはGirinathaという称号を持ったKen Arokの名前を同定することが、Rajasa王族とWardhana王族とは別にGirindarもKen Arokの末裔の一つの王族の名だが、Candi PenataranがKen Arok、が火葬に付された場所であるとの推測が出てくる。他方、Hyang Acalapatiはシヴァ神が具現化したものの一つであり、もちろんKen Arokが推し進めたシヴァ女神の性質の手本と同じ形である。
Kertanagaraの治世の1286年に戻ってPalahj碑文に注目してみよう。彼は、サカ歴1208年を意味する"Naga muluk sunangga jalma"という符牒として9人が下から支えている龍の浮彫装飾のあるCandi Nagaを建立した。
Jayanegara治世において、Candi Penataranは再び注目を集め始め、TribuanatunggadewiとHayam Wurukの治世に継続された。Palah神に対する祈祷は山の神あるいはシヴァ神に対する祈祷としての色合いが濃くなっていった。Candi Penataranは恩賜での国家寺院として開山した。池の壁に彫られたサカ歴1337年(西暦1415年)という年号は、Penataran祠堂群で発見された年号の中で最も若いものである。当時MajapahitはWikrawardhanaの治世であった。
スンダ王国の王族であるBujangga Manikの旅物語に関する15世紀からのスンダ語で書かれた年代史は、Rabu Palahは宗教を学習する場所であり、かつまた混雑した参詣地になっていると語っている。この本で、一年間ここに滞在した後、参詣者たちがあまりに現世利益を重視しているのでやむを得ずここを去ることになったと主人公が告白している。
Candi Penataranの存在は1815年に英語で最初に報告されたが、1850年までは知る者が少なかった。その発見者とはインドネシアを支配したことがある英国植民地総督のSir Thomas Stamford Raffles (1781-1826)であった。時代が下がるにつれて、以前には放置されていたPenataran寺院群は政府の注目を浴び始めその後に復旧された。現在この祠堂は興味をひかれる観光地となっている。
(以下浮彫に関する記載があるが割愛する)

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2007-12-10 作成
2009-09-30 写真追加
2010-06-10 追加訂正
2015-03-14 追加修正
 

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