第七章

南海冥府の女王の存在に関連する各種の伝統と慣習

第一節         ジャワイスラム社会における南海冥府の女王への儀式の緊急事態

イスラム信者を含めて、ジャワ人の生活は超越的でスピリチュアルな世界とは切っても切れないのである。確かに問題の程度は色々あるだけだが。初心者にとっては適切ではない認識の程度を確かに有するものである。他方、霊的な体験あるいはせいぜいスピリチュアルなレベルを上がり始めたことでスピリチュアルな世界に入った人たちにとって、それはより高いレベルを有しているのである。ジャワのムスリムは、有しているスピリチュアルなレベルがますます下がるとは考えず、宗教性という甘い感覚を感じる機会がますます減ってきたと考えるのである。最小限、霊魂の存在を隔てている崖と高度な精神世界とを橋渡しすることができると考えられているいろいろな実用的な方法がある。すなわち、目標にその望むエネルギーを届けることができると信じられている聖像学や象徴学なのである。確かに、かれらは象徴性や聖像学や物質の面にすでに接触したので、疑うべくもなく、神秘的な方法を通過せねばならず同時に物質の謎でスピリチュアルな認識の神話を登場させるのである。<213>

これらすべての行為は極めて高貴な意図をもって行われている。すなわち、自然と超自然との釣り合いと、神の国に存在するスピリチュアルな神性の表現としてのalhamdulillahという言葉と地上世界のどこにあっても「神Rabb al’alamin」の意図との釣り合いを調和させるためである。そのためにこそ、毎日の生活の中でジャワのムスリムの一部は宗教上の伝統的行為の概念と周期的・定期的な性質を持つ祭祀や儀式を実行することとを調和させているのである。Qul amantum billahi tsumma istaqim「お前たちが信仰をすでに持ったら(その信仰の精神性に手を伸ばすための)宗教的行為に一貫性が出る」という神に対する信仰の一貫性の形として上記の種々の儀式は定期的に行われなければならないのである。

Argo Twikromo (2006)によると、上記の諸儀式は、人生を平穏にする道具になり常にくりかえされる装置となる聖なる存在との関係を更新する形として超自然世界との関係を常に行うためであると意図されているとのことである。このようにして、個人的のみならず社会的にでも良いネットワークを通じて聖所と理解されている場所や幽界の力を有している場所、あるいはより高度な正のエネルギー段階を有する場所でジャワ人は常に自分を聖なる存在に近づけようとするのである。ジャワのムスリムの解釈での聖所とは、本当はアッラーの権威を付与された上記の場所となる独特の影響を持つ場所なのである。この権威で上記の場所は、他の場所と比べてより大きなエネルギーレベルに影響する、アッラーからの全知全能者(Al-Qawiyy)の形質の一部となるエネルギーを有するのである。肉体の形質を有している自分の存在とこれらの場所で得られたアッラーの力(すなわち恩恵と呼ばれたり、独自の理由によりアッラーによるパワーとエネルギー)とを橋渡しするために、自分自身の魂を聖なる能力の保持者とつなぐのと同時に、隠遁修業や瞑想、厄払い、禁欲、断食修業などの各種の神聖な伝統儀式にとらわれるのである。<214>

全知全能者また崇高なるものの形質とアッラーの他のいろいろな性質からあふれ出たものが作り出す神聖性を有する場所になるにはいくつかの理由があり、もちろんそれ自身が神とつながる理由という面を有しているのである。その中でも、イスラム伝道師の墓所になった場所や常にアッラーに対する信仰の中心になっている場所、アッラーに選ばれた精霊たちが存在している場所、神に選ばれた人たちが隠遁生活・修業を行ったことがある場所、神の言葉が常に唱えられている場所がある。

この文脈において、南海の女王陛下の存在が、種々の難問や人間界で起きた仕事を解決すべくすべての「悟りの晩[1]」にアッラーが天使たちや精霊たちを天から下すという、クルアンのAl-Qadr の第三節[2]にあるアッラーの言葉として編み込まれているという意味の一部を構成しているとジャワ人は理解している。ジャワ人によれば、南海の女王陛下(南海冥府の女王Nyai Roro KidulNyai Blorongではない)は、事実上インド洋とインドネシアの一部海域(スマトラ、ジャワ、バリ、ヌサテンガラ、イリアンジャヤ)の逆さまの自然界に置かれている上記の精霊の一部に組み込まれている存在である。Quraish Shihab[3]によると、上記の章で意図されている天使と精霊たちが「下される」という文脈は、それが一度に行われるということではなく、互い違いに徐々にということである。(Al-Mishbah XV:429)。このようにして、南海の女王陛下の存在において、一人として同じ方向を指している者はいないのである。「南海の女王陛下」は皇帝やサルタン、王あるいは大統領という大きさの呼び名なのである。それゆえ、実行者は常に入れ替わるのである。主要な原則において、南海の女王陛下を含む精霊と天使の降下は精神的であり霊的な「安全(平穏、平和、相互扶助)」という需要な命令を携えているのである。それゆえ、この南海の女王陛下の存在への感謝は、本来なら天使と精霊の降下という同じ方向になるはずだが、残りの人生のすべての時間にコのある行いをするために、感謝という面をますます強調しますます拍車をかけており、それゆえ人は永遠の平和という感覚を見つけるのである。(Al-Mishbah, XV:430) <215>

このように、ジャワ人にとっては南海の女王陛下の存在は単なる神話ではなく、「見えざるものAl-Baqarah 2/3[4]」への信仰という感謝の形の一つとしたとしてもal-arakan al-imanの一部に含まれるだけのものではない。

その後、彼/彼女が神話の谷に導き入れられたとしても、この神話の形も自然、特にジャワの南海に対するジャワ人の感謝という結果になるのである。上記の南海の女王陛下に関する神話は、物質界(物の外面で見えるもの)と霊界での命名(実際上行われた霊性の経験に基づいたもの)とを、常に物質界の生活とは反対である霊界の面において、関連付けることによってできあがったものである。このような理解は連綿と受け継がれていくものである。よってこの件に関する神話は、コミュニケーションの媒体として使われる象徴言語を形成しているので、その言語が文章や語句によって本当に届かない範囲において、聖なる体験を受け継ぐ道具となっている。もし後日、後世の世代の人たちに神話としてのみ理解されるのなら、この精神的伝統を受け継いできた先代たちと同じような感謝の心と宗教的体験能力とが不足している世代のため存在するだけなのである。この事実は、スピリチュアルな行動をとり本当に感謝ができる人たち少ない部分を脇にどけるので、神の許しを得て超自然的なビジョンの能力を有するのである。

南海の女王陛下の存在に関連する伝統行事は本来なら、ジャワ人が行っているたくさんの伝統行事のうちのほんの一部なのである。それ以外にも南海の女王陛下の存在に確実に関連するものは伝統行事のすべてではないことを知らねばならない。南海の女王陛下は、下界での任務を与えるために希望しアッラーの許しを与えられた多数(数百・数千)の精霊たちの中の一人であるからなのである。

伝統儀式の実施は聖なるものとみられていて、宗教行事の一部となっているためその実施も、いいかげんな場所や日にちに行うことはしないのである。そのすべては上記の儀式で意図されている超自然的で正のエネルギーを有する方法に従うのである。この件はいずれにせよ宗教行為例えば詳しく特別に決められた場所と日時の計算をもとに実施されなければならないのである。それ故に、上記の南海の女王陛下に関連する各種の伝統儀式の実施は合理的と言える。それゆえ、ジャワ社会では聖なる日と考えられているSelasa Kliwon, Jumat Kliwon, Jawa歴元日とwetonの日(出生日のジャワ歴の表記、西暦上での35日周期の日)が見られるのである。上記の日の選択はジャワ風の計算と個人個人の都合による。Selasa KliwonJumat KliwonJawa歴元日の特別な日は、これらの日はまだ生きている人類に超自然界の住民である霊魂たちが与えるエネルギーの発出日としたがっていると信じられているので、とても聖なる日と考えられている。

この文脈においてこそ、、南海の支配者としての南海の女王陛下との関係に関し、この世界におけるいろいろな人生に深い影響を与えるスピリチュアルな「エネルギーの合一」の形の一つとして伝統儀式を行う緊急性があるのである。(まずはジョグジャカルタ宮廷に先導される)ジャワ社会はParangkusumoMerapi山、Pelabuhan Ratu、南海の女王陛下やその他とスピリチュアルな関係を有していると信じられているいろいろな洞窟において種々の伝統儀式を行っている。ジョグジャカルタの宮廷と一般社会は南海の女王陛下への敬意と関係を、ジャワ暦に基づいて毎年海神祭りと呼ばれる奉納の儀式を通じたりBedaya Lambang Sariやその他の奉納の舞を維持することにより保持しているのである。

このあと、南海の女王陛下の存在と関連するジャワ人が行っている各種の儀式のうちの一部を見ていく。<217>

 

第二節         Suro月一日、ジャワ歴元旦の記念日と厄払い  

ジャワ人たちが「Suro月」と呼んでいるMuharam月は、ジャワ暦の最初の月であるから、ジャワ人にとって聖なる月なのである。ジャワの信仰によると、時が変わる時は聖なる時となるのである。このように、Suro1日を迎えようとする晩は大変聖なる時としてみられているので、その時は精霊を含む霊界の存在に対して供物をささげたり何かを送ったり聖地と考えられている場所で儀式を行ったりしている。

ジャワ社会の一部では、Suro1日において供物をささげる儀式は、さまよう霊たちが供物をささげる人の家族やその周囲の生活を邪魔しないようにするという意図が込められている。ジャワ人は、未完成な魂は神の下で最適な場所を占めることができないと信じている。まだ生きている親戚がいろいろな祈りや施しという形ですでに霊界に行ってしまった魂に役に立つポジティブなエネルギーを送ってくれることに彼らは感謝するのである。

ジャワムスリムの伝統においてMuharam1日の厄払いは一日の晩[5]に行われる。一般的に人々は他の晩のいろいろな宗教行為や隠遁修業や瞑想のように、Isyah後で行われる聖戦を共に過ごしたり、ともに心を開きあったり、心を込めた読誦、礼拝をおこなうのである。<218>

厄払いは、アッラーの確定を受けるためにあるもので済ませるといった簡潔のシンボルとしての野菜や豆腐、テンペ、これらに類似したもののいろいろなおかずと共にご飯(uba rampe)を持参する家族ごとによって行われるのである。この儀式を実施する内容は、この世とあの世での悪運や凶運を避けるために(すべての災いから安全であることを願う)神に許してもらうことなのである。一般的に読誦されるのは安全祈願の祈りと厄除けの祈りである。(後者はこの章の最後に掲載してある)

ジャワ人もSuro月の1日は南海の王国のための晩になると信じている。超自然界と南海の住民たちとの相乗効果を高めるため、いれものが清められたというシンボルとして沐浴や洗髪して彼らのうちにある入れ物を準備するのである。

この沐浴の問題において、本当はジャワ人としての慣習に基づくだけでないのである。Fiqih Islam[6]の教えでもMuharramの正月やSuro10日の記念日を迎えるにあたって沐浴し、爪を切り、髪をくしけずり、ひげを整えて人間の実在と関係するすべてのものをきれいにするのである。

pisang kencana jogjaKolak Kencana沐浴のために、上記の心身を使って自分自身を清めることを目的として、一般的に彼らは、panembahan Senopatiと南海の女王陛下との邂逅のあった考古学的地点のSela Gilangへの供物として花や香水、安息香からなる付属品を準備するのである。Lombard (1996:3/67)は上記の場所が伝統によって聖体婚姻の場所になっていると述べている。上記の奉納の儀式は、順番制で任に当たっているその場所の管理者(juru kunci)を仲介して行われる。この件はこの場所において、Panembahan Senopatiと南海の女王陛下への使者に誰でもがなれるわけではないという理由になっている。使者として認定されるのは特定の人たちだけなのである。一方、Parangkusumoで伝統儀式を行わない人たちにとっては、kolak kencanaの供物を奉仕のシンボルとして各々の住居や集落からポジティブなエネルギーを送ることができるのである。<219>北岸の人たちのためには、南海の女王と北海の女王のための象徴となる供物はsayur bening[7]と焼いたナマズである。

Sela Gilangでの奉納の儀式のあと、普通は安息香を焚き、南海に花をささげる個人個人でのParangkusumo海岸での奉納が続く。その後はParangkusumo海岸での断食、瞑想など他の修業が続くのである。

事実上、この時、Suro1日の晩にParangkusumo海岸にやってくるのは数千人の互いに異なる目的を持った人たちである。レクリエーションで来る人もいるが、霊的仲介者と南海の女王陛下のエネルギーを通じて神から毎日の安全と平穏を本当に得ようとする人たちもいるのである。このことは、感謝と理解が不足していることに影響されているから生じており、それ以外には、肉体の重要性からの要求にますます押されてその存在がますます削られていくスピリチュアルな神秘的な性質を確かに有するのである。

 

第三節         南海冥府の女王のための神秘的な祭事の意味

南海の王宮とMerapi山の王宮の南海の女王陛下という神話への協力者の存在に対するMataram王家の実施形態として、海神祭りを開催するのである。(ジョグジャカルタとスラカルタの)Mataram王家のこの伝統儀式は、王家と国民たちに常に安全と繁栄がもたらされるように神にいのるという実施形態として存在する。

海神祭り(labuhan)labuhという語から派生している。Labuhという語は(1)奉仕あるいは(2)雨季、田植えの時期、(3)捨てる、(4)休憩するあるいは停泊する、という意味を有している。Labuhanは「捨てる」という意味を有している。(Mulyono, 2008: 202) 南海の女王陛下と関係する文脈での海神祭りは、海中にあるいは噴火口の霊への供物を与えるために行うことを意図して海中や噴火口に放り込むことを意味している。上記の海神祭りの意味をつなげてみると、本質的に海神祭りとは、彼らの奉仕活動への確認の形として、安寧と祝福の提供という要素になっている、人間界の問題をコントロールすることと共に神からの使命を実行することで、存在感を有し神のエネルギーを放出する源となっている側に大事なものを捨てる(与えるという意味で)のである。それゆえ、海神祭りの儀式とは宗教行事のひとつであり、感謝の気持ちを具現化するものでもある。

海神祭りは通常Merapi山、Parangkusumo海岸、Lawu山、Kahyangan Dlapihなどの数か所で開催されている。この場所は、ジャワ社会の安寧を保ち常に助けることで功績を立てようとする、人間たちのために業務を遂行する多数の幽界の生き物や霊が存在すると信じられている。投じられる物(普通は衣類と食べ物とそれに類した物)は、上記の聖地の霊の存在と必要性に従って選ばれる。一般的にはtingalan Jumenenganのような特定の大規模な儀式を通じて行われる。王の持ち物で投じられる物は、胸までの腰巻の布、小紋の腰巻、一年間に切った髪の毛、サルタンの衣装一式と王の黒い帽子(mahkota)である。

上記の場所の選択は、神託によるものと、例えばPanembahan SenopatiPangerang Mangkubumiといった王家の先達たちによって超自然界の霊との情報交換のための場所として使えるかどうかといった比較検討によって決める。これ以外に、Lawu山での海神祭りは、ジョグジャカルタ王宮の先祖たちを組織して尊敬するという目的を意図している。Lawu山の支配者()は、避難してその後にLawu山の頂上で苦行者となったBrawijaya殿下という名のMajapahitの王である。死後、彼の魂はこの山の霊界の支配者になった。ジャワ人は彼らの人生で重要な役割を果たした場所あるいは聖地に供物をささげねばならないと信じている。海神祭りの儀式は感謝のしるしとして、また上記の四か所の霊界の支配者と連携した関係を維持するために行われる。このようにして、霊は宮廷を包み込み宮廷や国民が困難に面した時に彼らを助けたりジョグジャカルタ・サルタン国政府の継続性を守る支配者になるのである。<221>

このようにして、Panembahan Senopatiと南海の女王陛下との間の契約以外にParangkusumoで行われる海神祭りで、上記の海神祭りもサルタン自身と王国の安全のため、さらには国民の安寧のために催行されるのである。この契約はしっかりと保持されサルタン国の諸王によって認識されているので、現在に至るまで実用的だとみられている。王宮関係者たちが行っている海神祭り以外に南海の女王陛下への奉納儀式を多数のジャワ人たちは個人的にも実際に行っているのである。

上記の海神祭りの名前は、ほんとうはその初期には、王宮関係者によって催行される奉納の儀式のために使われる性格を有していた。これは国民と王国の必要性のために王宮の親戚たちに対する希望で行われるので、この王宮関係者たちによって催行される海神祭りはlabuh dalem (王家の地を有する人たちによって行われる海神祭りで、その意味は王の希望によって行われるものである。この文脈においてdalemという語は「王」を呼ぶために使われる)と呼ばれている。

南海の支配者としての南海の女王陛下とSekar Kedaton女王陛下、またMerapi山の支配者としてのKyahi Sapu JagadLawu山の支配者としてのSunan Lau陛下に対して、8年に一度tumbukの時にもKatangan Dlapihの支配者としてのSang Hyang Pramoniiに対して定期的に催行される奉納の儀式が行われる。

Hamengku Buwono I世からVIII世までの時代には、即位した翌日に行われ、その後は現国王の即位記念日の翌日に毎年おこなわれた。しかしHamengku Buwono IXが即位した後、海神祭りの様子が、即位記念日の翌日ではなくジャワ暦での国王の誕生日の翌日にと少し変わったのである。定期的な海神祭り以外に、宮廷の人たちも特別な海神祭りを行う。<222>この特別な海神祭りは、Hamengku Buwonoサルタンが子供たちの結婚を祝福するかあるいは何らかの理由で必要とした特別な時、Parangkusumoで催行されるだけである。

Kuluk PanigaraãŒkuluk kanigaraãã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœParangkusumoとその他の場所での海神祭りの儀式は互いに異なり、labuhan alit (小海神祭り)labuhan ageng (大海神祭り)の二種類の催行形態がある。Labuhan alitは即位記念日の翌日あるいはHamengku Buwono IX世以降はサルタンの誕生日におこなわれる。このlabuhanParangkusumoMerapi山、Lawu山の三か所だけで行われるものである。他方、labuhan agengは、新サルタン即位日の翌日とサルタンの誕生日の翌日、すなわち8年に一度ParangkusumoMerapi山、Lawu山、Dlephiの四か所だけで行われるものである。というのはジャワ暦では日にちと曜日、干支、月、年が八年間で一周するからである。Labuhan agengの時に投入されるのはこれよりもっと完璧であり、特にDlepohの時には馬の鞍もついかされる。四年に一度Parangkusumoでの海神祭りでは特別なものが追加される。投入されるものの種類はlabuhn alitとほぼ同じであるが、白い帽子と輝く金色をした傘とkuluk panigaraが追加される。Parangkusumoでのlabuhan agengの時に投入されるものは四年に一度の海神祭りとほぼ同じであるが、投入されるすべてのsemekanは白の装飾が施されている。

以下に続くのは、大事な四か所の海神祭りで投入されるものである。(Sumarsih,dkk., 1985/1986; Moeryawati, t.t.)

(1) Parangkusumoの海神祭り(labuhahn) (1)

(a)  Pamgajeng

1)       é–¢é£ç”»åƒSinjang cinde abrit 赤い花模様の腰巻

2)       Sinjang cinde ijem 緑の花模様の腰巻y

3)       Sinjang limar 絹の腰巻

4)       Semekan sologsemekan Gadhung Mlati

5)       Gadhung mlatiSemekan Gadhung 蛇模様の胸巻

6)       Semekan Udaraga 濃い赤の胸巻

7)       Semekan Jingga 濃い赤の胸巻

8)       Semekan Banguntulak

9)       Gelaran pasir kasaban mori

10)    Sela ratus lisah konyoh

11)    100ルピアが入ったYotro tindhihの封筒

(b) Pendherek

1)       sinjang poleng 縞模様の胸巻

2)       sinjang teluh watu

3)       semekan dringin

4)       semekan songer

5)       semekan pandhanbinethot

6)       semekan podhang ngisep sari

7)       semekan banguntulak

8)       sera ratus lisah knyoh

9)       100ルピアが入ったYotro tindhihの封筒

(2) Merapi山のlabuhan (各一)

1)   Sinjang cangkring

2)   Sinjang kawung kemplang

3)   Semekan gadhung mlati

4)   Semekan gadhung

5)   Semekan banguntulak

6)   Kampuh poleg

7)   Dhesthar dara Muluk

8)   Paningset jingga

9)   sera ratus lisah knyoh

10)  100ルピアが入ったYotro tindhihの封筒

(3) Lawu山でのlabuhan(各一)

(a)  Pamgajeng

1)        Kampuh poleng

2)        Dhesthar banguntulak

3)        Paningset jingga

(b) Pendherek

1)      sinjang cangkring

2)      sinjang gadhung

3)      sinjang teluh watu

4)      semekan dringin

5)      semekan songer

6)      sera ratus lisah knyoh一袋

7)      100ルピアが入ったYotro tindhihの封筒

(4) Dlepihでのlabuhan

1)   Sinjang limar

2)   Sinjang kepyur

3)   Sinjang perkutut pethak

4)   Semekan dringin

5)   Semekan songer

6)   Semekan solok

7)   sera ratus lisah knyoh一袋

8)   100ルピアが入ったYotro tindhihの封筒

9)   馬の鞍2

Hamengku Buwono IX世の時代はParangkusumoでの海神祭りはBakdomuludの月の25日の後におこなわれていた。この日は王宮の家宝の記念日であったため、毎年labuhan alitが行われていた。オランダが即位記念日を行っていたためHamengku Buwono IX世は毎年即位記念日の時に海神祭りを行わなかった。というのはオランダによる即位記念式典を望まなかったからであり、彼は即位記念日と関連する定期的な海神祭りを変更したのだった。しかし、8年に一度行われる即位記念大祭の時にHamengku Buwono IX世はまだしっかりとlabuhan agengを開催したのであった。

定期的な海神祭りの開催日は、ジョグジャカルタ王宮の先祖たちが決めた日から時々逸脱する。これは開催不可能な状態の時におこなわれるのである。Hamengku Buwono VIII世の時代には新規の海神祭りが即位記念日の二カ月後に開催されたが、その後、元の通りの日付に戻ったのである。そうではあったが、インドネシア独立前後の時代であったHamengku Buwono IX世の統治下では海神祭りが何回か行われなかったことがあった。<225>当時の独立戦争の状況では海神祭りを挙行することは不可能であったからである。

海神祭り以外に、Sedekah Gunung (山の神への捧げもの), Selamatan Teranak (家畜の安全祈願), Selamatan Selasa KliwonJumat Kliwon (霊界の存在に対する安全祈願), Selamatan Orang Hilang (行方不明者への安全祈願), Selamatan Orang Kesurupan (憑依された人のための厄払い), Selamatan Sekul Bali (), Selamatan Mengambil Jenaza (死者の昇天祈願), Selamatan Menghadapi Bahaya ãŒlabuhan gunung merapiãã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœMerapi (メラピ山の鎮魂)などの特定の場所で一般大衆が行う他の厄除けの儀式がある。

Labuhan Gunung Merapi海神祭りは一見すると供物の奉納のように見える。しかしこの伝統儀式の本来の目的は、人類の不幸を招くすべての厄災を払いことを喜ぶとともに安寧と福祉とを与えてほしいと神に願うことである。

この海神祭りの他の面は、自然とのバランスをとる力を与えるとともに、自然を守るために人間を元気づけることなのである。したがってuba rampe(食べ物の供物)の投入は、人間の過誤であるのみならず自然のメカニズムと起こす過程などのこれから起きようとするネガティブな要素を中和するためにおこなわれることを意図している。<226>

上記の海神祭に神秘的な様子が見られるのは確かである。ジャワ社会の一部でもこの伝統儀式は十分に神秘的であると常に考えられている。しかしながら、その意味の研究という面からみるとともに海神祭りの起源と経緯に基づいて研究すると、少なくとも山や海岸付近など伝統行事が行われる場所で、この世界でおきるネガティブな要素を中和させると考える他はないのである。

他方、Parangkusumoで行われる海神祭りの伝統に関連して、ジャワの一般大衆の持つ理論に存在しているParangkusumo海岸での海神祭りの起源に関する見解が二つある。最初の見解は、マタラム王朝の始祖であるPanembahan senopatiに下されたのゆえに海神祭りは行われているというもの。一方、二番目の見解は、マジャパヒト建国より遠い昔からジャワの諸代の支配者たちに連綿と引き継がれてきた伝統ゆえに海神祭りは催行されているというものである。

最初の見解から始めると、それはマタラム王朝と南海の王国との関連に関するPanembahan Senopatiと南海の女王陛下の物語と約束に基づくのである。ジャワの王になったPanembahan Senopatiの子孫は常に王国とすべての国民の安寧を考えて、その時に王位にある国王は南海の女王陛下との関係を持たなければならないのである。この関係は、南海の女王陛下への供物ということで表され、その反対に南海の女王陛下は、国民すべてと王国の平和と安全に対して援助するのである。

第二の見解はHajar Cemara Tunggalとマジャパヒトの建国者のひとりであるSesuruh殿下との約束に関連している。Sesuruh殿下とその子孫がジャワの王になった時に障害に直面するので、霊界の軍隊で援護するとHajarは語った。(Sudibyo, 1980)人間界と霊界が関連している形はsesajen(供物)の儀式行うことである。ジャワ社会が信じているところによると、ジャワの王でこの儀式を怠った誰でも確実に破滅するか度重なる激しい動揺に見舞われることになっている。(Triyoga, 1991: 93)

ジャワ島がDemakイスラム王朝に支配されていた時にはすべての儀式は中止された。この状況は飢饉や暴動、そして伝染病をもたらした。イスラム導師のアドバイスでこの期間中厄除け儀式は拒否され行われなかった。その結果、Demak王朝は種々の危険から解放された。

この二つの見解は南海の女王陛下を尊敬し関係を保つことでジャワ社会の毎日の生活を生きていくことと同じになっている。一般的に、彼らは海神祭りの起源についてはあまり考えようとしていない。彼らの提案は王宮の人たちが行う南海の女王陛下への崇敬儀式の実施なのである。

今日でも、ジョグジャカルタ王宮は王国に障害が起きないようにparangkusumoでの海神祭りを行っている。超自然界の支配者に保護を求めないときは国民を守らないことでジャワの王は長続きしないのである。奉納の儀式なしでは、災害や自然現象による障害が発生し、超自然界の支配者とその同調者たちの怒りのゆえに国民ともども王国も転覆するのである。王宮の人たちによって行われる海神祭りの習慣を中止した時はいつでも、これらの霊界の支配者たちは王国とその国民全員にいろいろな災害や病気を拡散するためにその軍隊を送ると信じられている。より正確に言うならば、霊界の次元と超自然界の生き物はこの自然界の調和にとって平衡となりうるのである。

 

第四節         ジョグジャカルタの王宮のNdalemにおけるSemangの女性奉納舞踊    

Bedaya SemenangãŒsemang bedayaãã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœTwikromo(2006)によると、Bedaya Semang舞踊はジョグジャカルタの王宮の中でとても聖なる舞踊に含まれているとのことである。この舞踊も王宮の特別な人しか見ることができない。この舞踊のためのガメランは126個のゴングからなり、約三時間にわたって演奏される。この舞踊が行われる時は毎回、raulan, ketan salak, 鶏卵のkluwa, バナナのkolak, tumpeng uruping damar, tumpeng robyong, tumpeng gundhul, 生きた鶏、tukon pasar, imping wedang kudhukなどの食べ物(これはKi JayudaあるいはTumenggung Purbonegoroのためのもの)jenang^jenangan, air sri taman, dilap jlupak,水の入った水差し、gecok mentah, rujak degan, rujak tape, rujak deplok, rujak wedang, rujak arang-arang kembang, rujak jeruk, rujak tampil, pala kependhem, gumantung,そしてkesimparとお香の24種類の供物が奉納される。お香を焚くときは、Sultan Agung 陛下と南海の女王陛下様[8]に対する礼賛[9]を伴う。

Bedaya Semang舞踊は、マタラム初代サルタンのPanembahan Senopatiと南海の女王陛下との恋愛の神話を背景として、第三代マタラム王であるSultan Agung (1613-1646)によって創作されたBedaya Ketawangとも呼ばれている。(Spedarso, 1990)

Bedya Lambang SariBedaya Lambang Sariのように、この舞踊は8人の見える踊り手と一人の見えない踊り手(南海の女王陛下)9人の踊り手によって演じられる。整然とした世界の秩序を形作って彼らは王の前近くにある演台に入る。(Subagya, 1981:123-125)この舞踊はとても深い宇宙の意味を有している。演舞開始前に、踊り手たちは身を清め、義務化している行動をとるのである。

この舞踊はSelasa Kliwonの晩のBedaya舞踊が演じられるはるか前にSultan Agung Hanyakrakusumaが南海の女王陛下と会いたいと願った時代を想起させるのである。これ以外に、Selasa Kliwonの晩はジャワ人にとって神聖であり魔力を有しているのである。<229>Bedaya舞踊はChoyが言っているように(1976:174)南海の女王陛下を思い出して尊敬するために利用されているのである。

この舞踊は、当初インド洋の南海の女王陛下を記念するためにSultan Agungよってはじめられたものである。この舞踊は実に南海の女王陛下にぴったりと合うものである。サルタンとは、超自然界の生き物と先祖たちの霊との関連連れる物語の主題を形成していることに驚かされる勇気ある行動をとっていきた最後の大王なのである。かれも超能力を持っていることを認めている。

王宮の人たちに近いジャワ人によると、Bedaya Semangの舞踊は、南海の女王陛下を尊敬しさらにはジョグジャカルタ王宮に招くために利用される。この舞踊の意味を具現化したものは大自然の平和であり、この舞踊を演ずることで、王国とその国民の平和とバランスを維持するために南海の女王陛下が楽しんでくれることを願っているのである。

Bedaya Semangの舞踊はHamengku Buwono I世からVII世までの期間には定期的に催行されていた。しかしながら、Hamengku Buwono VII世の時代に、催し物の最中に踊り手が記憶障害になったという事件が発生した後、今に至るまでこの舞踊は演じられていないのである。この事件が引き金となり、踊り手とガメランの楽団員たちはこの事件が再発することを恐れるようになったからである。彼らの大半は本当に純真[10]ではなかった。この件は、上記の踊り手が純真ではなかったと理解されたゆえに、複数の宮廷使用人にこの事件は南海の女王陛下の怒りとして見られたからなのである。<230>

Hamengku Buwono IX世の時代の1970年頃にBedaya Semangの曲が練習のために演奏されたことがあった。この練習は、宮廷使用人のKridomardowoであるLurah Sastropustakaの指揮で宮廷芸術団のようにTepas Kridomardowoによって行われた。練習の前に楽団員たちはImogiriの墓所でSultan Agung HanyakrakusumaParangkusumoで南海の女王陛下に対して恩恵の祈りをささげた。この練習にはBedaya Semangの舞踊を演ずるために基本の24種類を含んだ各種の供物を伴ったのである。しかし、練習が半分まで来た時、罰が当たるのを恐れて楽団員たちの大多数が辞退してしまった。このようにして、この曲の練習は失敗したのであった。彼らが信じるところによると、この失敗はSultan Agungと南海の女王陛下に許可されていないという理由であった。

最後のBedaya Semang舞踊は2002年におこなわれ、それ以降は演じられていないが、それは毎回Selasa Kliwonの晩に演じられるGladhen(ガメラン演奏)で維持されている。Anggara kasihの日[11]だけBedaya Semangを演じることができる。それ以外に演舞を行うことができるのは処女で生理中ではない女性だけである。

この練習会に伴うSultan Agungと南海の女王陛下、Ki Joyudo (Sultan Agungの顧問)に向けた供物は、先祖とこの舞踊の所有者として信じられている南海の女王陛下のための絶対条件になっている。南海の女王陛下の許可を得ることで、毎回Selasa Kliwonの晩の練習を行うことができるのである。

Gladhenはジョグジャカルタ宮殿のBangsal Srimanganti19:00から演じられる。踊り手と練習生がパンの形をしたものとお金が入った封筒の形をしたparingan Dalemを開催費用のために同席者から集めるとともに同席者の出席を記すのである。<232>演奏者は正式なpranakanを着るのみならず踊り手もあらかじめ決められたクバヤを着てかつらをつける。

Pranakan abdi Dalemその後練習生が一定のところまで演舞を行う。踊り手と練習生との間の親密さと尊敬を想起させる雰囲気である。その後、ガメラン演奏を伴ったGladhenがようやく始まるのである。その楽曲は極めて喜ばしくスイングして、できるだけよく演舞するために精神集中している踊り手が続くのである。たまに練習生が正しくない動作を修正し、その続きの動きを思い出させるのである。それはとても美しい雰囲気である。Bangsal Sri Mangantiのランプの黄色い薄暗い光で踊り手の肌から光が出ているように見え、クバヤの種々の色が美しく映え、南海の女王の姿を想起させる。同一な状況は引き続き繰り返され、35日ごとのSelasa Kliwonの晩に行なわれるのである。

礼拝を忘れないようにして演台からおりて、練習生と踊り手、演奏者はあらかじめ準備されていたngrayah sajen[12]をしながら休憩する。雰囲気は急激に喜びに変わりGladhenの参加者は彼らの精神の福祉の多として王宮からの恩賜のしるしとして用意された供物を持ち帰って食べるのである。Nasi Gurihayam ingkungは、ayam hidup menjadi rebutanになるまで、公平に分けて、いろいろな果物と出来合いのお菓子、いろいろなrujakjenangとを一緒に食べるのである。Selasa Kliwonの晩のGladhiは普通21:00に終わる。練習生たちはその日に習ったことを忘れないために、次のSelasa Kliwonの晩に繰り返されて上手になるために踊り手に言い残すのである。

 

第五節         Lambang Sariの女性奉納舞踊  

2006年にTwikromoはジョグジャカルタ・サルタン国が神聖な舞踊、Tari Bedayaを保持していることを見つけた。この舞踊は特定の時に演じられるのである。しかし、ジョクジャカルタ王宮のTari Bedayaのすべてが南海の女王陛下と関係があるということではない。南海の女王陛下と関連しているTari BedayaとはBedaya Semang (Semang=同席)Lambang Sari (男女の愛の象徴)である。この二つの神聖な舞踊は2002年を最後として現在は演じられていない。これは、この舞踊が極めて神聖であるがゆえに、踊り手とガメラン奏者たち自身が清められていないと感じて罰が当たることを恐れているのである。

昔のLambang Sariの舞踊はPanembahan Senopatiと南海の女王陛下との間の恋物語を記念して尊敬するために演じられたのであった。このTari BedayaTari Bedaya Semangより古いものと考えられているがゆえに、宮廷使用人の大部分はよく知らないのである。原則的に、このTari Bedayaは目に見える8人と目に見えないもう一人である南海の女王陛下の9人の踊り手で演じられる。あるいは踊り手の一人分は南海の女王の場所としてとってあるともいえる。この演目の前には踊り手もガメラン演者も断食を行い身を清めたりしなくてはならない。ガメラン演奏を伴ったこの舞踊は民族の宝として考えられている。

Bedaya Lambang Sariの演舞の際には毎回18種類の供物をささげなくてはならない。すなわちdhadhar rasulan komplit, dhadhar golong, dhadhar asrep-asrepan, dhadhar ambeng, dhadhar punar, dhadhar gebuli, tumpeng megono, dhadhar ropoh, pisang ayu suruh ayu, robyong gundhul, 蓋つきの竹籠に入った椰子砂糖、ツボに入ったコメ、色付き卵、バナナのおかゆ(kolak)と青い椰子の実、impling komplit,小さなtumpengを形どった五色の花、生花、紅白のjenangboro-boro,硬貨で巻かれたキンマの葉、gecok mentah, rosan pantunそして水牛の頭である。これらの供物が備えされる時munjuk atur (祝福の祈りを捧げその意味を含んで言葉発する。一般的にはこのmunjuk aturができる人は特定の人に限られている。)Panembahan Senopatiと南海の女王陛下に対して行う。

この儀式が終わった後に、約一時間にわたり南海の女王陛下のためにこの舞踊が繰り広げられる。この舞踊は大自然の平和を形どっているために、神聖な舞踊として理解されている。演じられるのは規則的な天体と、まるでこの舞踊を見ている王を取り巻いている動きである。<234>この演舞を見ることができるのはsemadiの雰囲気下で王宮関係者の特別な人たちだけである。

 

第六節         Suro1日の晩の山への奉納と登山祭り       

その魅力に負けない伝統には、Muharramの月の勇気に関連していると考えられているいくつかの山に登るものがある。ジャワではMuharramの月の1日の晩の登山が行われる中心地は、Merapi山、Merbabu山、Lawu山である。この三山は、陸上のジャワ王国と南海の王国との間の神秘的な連絡としての南海の王国との三角形の境界として考えられている。この参画の軸は、ジャワ島王国の形に結び付けている。その晩におこなわれる登山祭りを意図してやってくる登山者たちは中部ジャワに限らずジャワの大都市のみならずジャワ島外もあるのである。

登頂後、普通は一緒にご来迎を見て祈るのである。一方、Merapi山ではその晩の登山以外にも、Merapi山の火口へuba rampeと呼ばれる供物捧げるため、その朝や昼に海神祭りの実施に同行しようとする目的を持った登山もある。また同じ時刻に、南岸でも海神祭りが催行されているのである。

これら以外にも、登山は実際に魂の前進の意味も有しているのである。自然によって形成されたパノラマと地平線を見ることで、聖典の一句とアッラーの権力と偉大さのしるしが、この登山によりますます明確になるということなのである。

この登山に十分に意味を与える他のこととは、頂上付近にはアッラーの使徒たちの墓所があるということである。それゆえ、この登山は宗教観光あるいは参詣という面を持つのである。例えば、Lawu山の頂上にはSunan LawuNyai Argo Dumilahの墓所がある。一方、Merapi山の頂上には、旧Pengging地域の上の部分で説教の先駆であったSunan Kalijagaの教え子であったKyai Rachmadi (Embpu Permadi)の墓所が見られる。<235>

それと分かっているジャワ人とジャワのムスリムから構成される登山者たちにとって、普通はMerapi山とLawu山に続けて登り、隠遁修業のためにParangkusumoあるいはGoa Langseにそのまま向かうのである。なぜならば、ジャワ神秘主義者の中では、南海とMerapi山とLawu山はジャワの土地のゴールデントライアングルとして見られているからである。

https://en.misterifaktadanfenomena.com/2017/07/horrible-mystery-and-myth-of-merapi.html

 

第七節         ParangkusumoにおけるKliwon火曜日とKliwon金曜日の晩の祭事    

Suraの月の1日以外にも、上に述べたように、神聖であると理解されている日には、ジャワ人の一部はParangkusumomaneges (瞑想)したり海神祭を行う機会を与えている。その第一優先順位に意図されていると鳩はSelasa KliwonJumat Kliwonの晩である。35日周期中に一階Selasa KliwonJumat Kliwonが定期的に回ってきて、苦行や熟考を通じて精霊や霊体とコンタクトを取るための決まった時として利用されている。<236>

Selasa KliwonJumat Kliwonに向かう夜になると、南海の女王陛下とその部下たちわ働きかけることで神にたいして安全と人生の平安を願うためにあちこちの地方からの人たちでParangkusumoはにぎわうのが一般的である。祈りをささげたり喜捨などを行うこと、あるいは単にParangkusumoで苦行を行うことでいつでも、彼らは南海の女王陛下が自分の人生の安全を守ってくれることで援護してくれると信じている。明確なのはこれらすべてが神の支配下と許可のもとにあるということである。

Selasa KliwonJumat Kliwonの晩におけるParangkusumo海岸での奉納の儀式の方法はSura1日の儀式の方法とほぼ同じである。その本質的には上記の奉納の儀式は、同じ霊体に捧げるものであり、その時が異なるだけである。奉納の儀式は個人的に行うものであるから色々な変化が生じるのである。両者を比較してみるとSelasa KliwonJumat Kliwonの晩にParangkusumoを訪れる人はSurp月の1日の晩ほど多くはない。これはジャワ人の視点ではこれら二つの日の神聖さが起因しているから、Suro1日の晩がジャワ人にとって最も神聖な日という結果を導いているのである。さらには、Selasa KliwonJumat Kliwonの晩とSuro1日の晩が一致すると海神祭りを心待ちにして参加している人たちは活気づくのである。

 

第八節         南海冥府の女王と結びつく断食と苦行 

ここまでにみてきたように、南海の女王陛下と霊界での存在との関係を構築する上で、ジャワ人はスピリチュアルで魔術的で神秘的な儀式を行うのである。Suroの月の最初の10日間、Selasa KliwonJUmat Kliwonの昼と夜のような特別な時にジャワ人は断食と修業をもってその注目すべき行為をしばしば行うのである。

現実に、上記の断食と隠遁苦行という文化はイスラムのFiqih[13]でも求められている。推奨されるのはAsuraの日の断食行であるいう預言者ムハンマドのhadis-hadis[14]に対する多数の批判があるということはすでに見てきたこととはいえ、Ahl as-Sunnah wa al-Jama’ahのムスリムたちは、Muharramの月の10日あるいは、時々その前後の日にも伝統的な断食行を必ず行っており、このように、Mukasyafat al-Qulub (2004: 311)の中でImam al Ghazaliが引用したhadisに述べられているのである。<237>Hadisの記事の多くはMuharram月の10日に断食行を行うことが優先されていてPuasa Muharramと呼ばれていることもあるので、これはムハンマドの習慣とみられている。これを述べているhaditsは、Matan ak-Bukhari (1:342, 4); Shahih Muslim (1:456-459, 27); Sunan Abu Dawud (2:323, no 2429-2430 2440-2446); Sunan al Tirmidzi (2:125-128, no. 749-752); それにTawsab al-‘Amal al Shalih (no. 755-759)Fadhail al-A’mal (no. 59-60)などがある。

ウラマの一部とイスラム神秘主義集団は1日から10日まで、アッラーへの感謝のしるしとして、Muharram月の10日に向けてアッラーが予定したいろいろな大きな事件を熟考するとして連続して断食行を実施している。この連続10日間の断食行は、本来、預言者ムハンマドの生活慣習に違反するものではない。Senan Abu Dawud中でShaum ak-Muharram (ムハラム月の断食行)Shaum Yaum ‘Asyura (ムハラム月の10日の断食行)とを区別している。預言者は、ムハラム月の10日の断食行ではない、ムハラム月の断食行はRamadhan月の断食行の後の最優先されるものであると述べている。(Sunan Abu Dawud, 2: 232。同じハディースがあるとImam MuslimFadha’il al-A’mal59から60ページのno. 192にある)。上述のSunan Abu Dawudの聖典には確かにムハラム月の断食行と’Asyuraの断食行とは別々にされている。

ジャワ人ムスリムの文脈で、上記の断食行は単に預言者の慣習に習って行われているだけではなく、自制心を操るかあるいは宇宙の支配者Allahに対面して自己評価を行う媒体なのである。それゆえ、Muharramの月の10日まで断食行を行うことは、禁欲修業の一つとして、あるいは魂の行為を行うこと、命の完成に進むことなのである。ゆえに、その行為の実行は単に宗教規範のみならず、神と人間との関係におけるより深い結びつきなのである。<238>sufi[15]的正道を行うことはriyadhah[16]と隠遁修業となすことであるから、悲しむことでの禁欲修業はアッラーに対する魂の善行のためにだけ、俗世間での行動を打ち捨てても、時期を特定化するのである。お祝いや安全祈願などの徳のあることを行うことをもって、断食行と修行を行うことで、イスラム伝道者と神に近いと考えられている人たちの霊に向って祈りとポジティブなエネルギーを送る儀式を伴うのである。ジャワ人ムスリムの文脈では、預言者ムハンマド以外に、Syaikh ‘Abdul Qadir al-Jailaniと、聖地から祈りを送る儀式を通じて最優先順位にある南海の女王陛下もそれに該当するのである。

 

第九節         Suroの祝宴と厄払い

未だに伝統的な生活を送っているジャワ人と一般的に村落部に住んでいる人たちにとっての伝統儀式の一つに含まれているのがMuharram月の10日に行う厄払いの祝宴を行うことである。ゆえに、このMuharram月間にジャワ人ムスリムは、Muharram1日の晩の祝宴、災害や引き受けるには重すぎる試練を避けるべく神に願うことを意図する、bubur suroあるいはmanggulanというMuharrm8日の祝宴と同月10(Asura)の厄除けの祝宴などいくつかの祝宴を行うのが一般的である。

Muharram10日の厄除けの祝宴は一般的に二回行われる。Uba rampeを優先して行われる10日の晩の祝宴はtumpeng rangsul (白あるいは黄色のおいしいご飯)ingkung (ニワトリ一羽の料理)、黒大豆を揚げたものとクラッカーである。この厄払いの趣旨は不滅の世界に平安を与えるべく、またこの世に生きているものに神が繁栄を与えるように家族から諸霊に祈りをささげることである。これ以外には、過去における悪い性格や行動のすべてをアッラーに許され、二度と繰り返さないようにすることを意図されている。時には、預言者の指導に従ってまっすぐな生活態度を常に追求するための意図と目的を持ち、同時に、この世とあの世での預言者のとりなしを得るために祈るのである。

Uba rampeそれ自体は深い哲学的な意味を含んでいるのである。Tumpeng Rasulとは「metu dalan sing lempeng manuat kanjeng Rasul = 神の使徒の教えを守り正しい道をとおる」という意味を有している。また十分に煮込まれた鶏肉のおかずはingkungと呼ばれ「inggala njungkung = 預言者や神の使徒に従った人たちの特徴としてアッラーに対してひれ伏せ!」の意味を含んでいる。黒大豆は除かれるべき罪や汚点を意味し、白い煎餅とは罪や汚点をアッラーが許した後のことであり、そのすべてが白く清潔になることで軽くなり簡単になるのである。その特徴は人生が楽になるということである。時々このuba rampeに南海の女王陛下への祈りを届けるというシンボルのkolak kencana[17]MerapiEyang Sapujagadのために土鍋にいれたnasi liwet[18]を加えることがある。

他方、それに続く儀式はMuharram10日の昼間におこなわれる。その時のUba rampeは白飯のnasi tumpengと味をつけて揚げたジャガイモと豆腐とコロッケ、テンペ、クラッカーなどからなるおかずで構成されている。<240>特別なのはjajan pasarと揚げたバナナ(pisang batu rakit[19])として名付けられているものである。

このすべての構成品は、罪と汚点を許された後、悪い性格が葬られて、気高い心を持つ人間が登場してアッラーの性格のように精神を気高くするという、仲間への寛大さと良い心の教育とそのシンボルとして意図されている。その願いとは一般的には厄除け祈願とこの世とあの世での人生の安全と幸福なのである。ジャワ語でgedhangと呼ばれるバナナの実は「明日あるいは将来」を意味するアラビア語のghadanから派生したものである。その意味とは、あの世での生活が寛大さと喜捨、他人への援助、仲間の要求を満たしてやることを通じて幸せに包まれた未来的なジャワ人ムスリムのビジョンなのである。

厄除けの呪文を含んだ一般的な祈り以外に、Muharram月の10日伝統儀式の際に読まれる特別な呪文は以下のとおりである。

(呪文は省略)

 

第十節         十日間の苦行

ジャワ人ムスリムとクジャウエンの人たちはMuharram月に、神にのみに対して自分の態度に対面することに特殊化した修業の儀式を執り行う。それは一般的に人里離れた特別な場所を選んで行われる。例えば、洞窟、森の中、山岳部、海岸、あるいは少なくとも隠遁修業、伝統的修業[20]あるいは瞑想用として準備された特別な部屋である。昔のジャワ人の家には(イスラム神秘主義を信仰していたりクジャウエン中でクバティナンを信仰している人たちの家にはまだ存在する)、礼拝や宗教行事を行うときにだけ入る特別な部屋を設けてある。

隠遁修業はMuharram1日から10日まで行われるのが一般的である。その期間の昼間に断食行を伴うものがあり、充分な隠遁修業とは言え、飲食物の摂取を極めて制限するものである。これ以外にも、本当に必要な時以外他人と話さない「無言断食行」がある。このように、昼間の断食行を伴うものと徹夜で起きている行もある。上記の隠遁修業儀式の種類は、その真意は人生をより完成化のするための方法である特別な方法でアッラーに自分自身を近づけるということなので、重要な論点にはならないのである。その目的は単に自分自身をアッラーに近づけるというためだけではなく、自分自身に対するアッラーの権利としての特別な機会を与えるということである。これ以外に、諸霊や霊界の存在と、さらには南海の女王陛下との交信を行う方法として意図されているのである。

Qadiriyyaカーディリー教団[21]の正道の信奉者たちの考えの支柱には、24時間の間での礼拝、その章、ジキール、読むべきwirid[22]のみならず、他の手色々な時刻も決められている、隠遁修業や瞑想の特別なやり方が決められている。(Sholikhin, 2008) <242>

 

第十一節   Jamas Pusakaの儀式     

James Pusakaとは、一般的にクリスやbesi kuning[23]、槍であるジャワ人が所有する幸運を持つ物体に対して定期的にメインテナンスを与えることである。ここでいうjamesとは、一般的にwaranganと呼ばれるクリスに塗る毒性の液体とuba rampeでこれらの家宝をきれいにする意味である。Jamaswaranganの目的は二つある。最初の目的とはこれらの家宝を錆させないためと、芳香を与えるためである。第二の目的は霊力を防いだりその力と幸運にする力を強めたりするものである。それゆえ、実際にはjameswaranganとは魔術を行うことではない。Jameswarangan以外にMuharramの月には、一般的に家宝もminyak pusaka[24]を振りかけられて、家宝のもつ威信はそのまま保たれてそうみられるのである。

この家宝に対するJamasanの伝統儀式は、これらの家宝の魔力がさらに高まると信じられているSuroの月におこなわれるので、Suroの月の神聖さと祝福によって発錆するポジティブな力でさらに強まるのである。これ以外にしばしばみられる自然界と幽界との文脈に関連するjamasanとはjamas(神聖化された)家宝を元に戻すためにある。そしてその時々こそが霊的存在との関係を結ぶ時なのである。

Muharram月におこなう家宝の手入れと定期的に行うその他の手入れとは厄払いの儀式を行うかどうかがその相違点である。毎日、あるいは毎週、毎月行われる手入れは一般的には香油やjamaswaranganを与えるだけである。他方、家宝を神聖化する日の前の晩に行われる年単位の手入れはこの家宝が悪影響を与えないようにあるいは損害を与えないように神に願う意図を含んだ厄払いを伴うのである。<243>

ジャワ人にとって家宝を所有することは、家畜や自動車などの乗り物を所有することと比較されるのである。上記の家宝を所有することの影響は、その物品の状態や機能に従って手入れを行わなくてはならないことに及ぶ。

個人所有の家宝に対する所有権以外に、ジャワ人にとって、SurakartaSusuhunanYogyakartaのサルタン家の家宝である装飾品を大変に尊重しているとR.P Suyonoは記している。(Suyono, 2007:252) それゆえ、宮廷の家宝のjamasanが行われるたび、今に至るまでそれを見届けるための大衆の興味を引いているのである。

王国の装飾品と家宝はふだん慎重に保管されており、一般的にはkirab pusakaと呼ばれている、臨席者に見せるために特別なお祝いの時に九九別な方法で取り出されるだけなのである。王国の支配者が交替することで、一般的には、新しい支配者にこれらの家宝も受け継がれるのである。国民によってこれらの家宝を手にする人あるいは王はしばしば権力と神性を付与されたと考えられている。家宝の紛失は、国民の支持の喪失と王権の喪失、王国の威信の喪失に影響すると考えられている。

この重要な地位は王国をとりまく環境で、家宝は神秘的な動物の名前を与えられ、それ以外にしばしば「長老となった」を意味するKyaiの称号を与えられている。

例えば、Peksi Garudaのようにその名前は王の強さを象徴する神鳥である。Arddhawalikaは、王の知恵を描いた人間の頭に似た蛇の頭をもつ竜の形をしている。Sawinggalingは、王の守護を描いた神秘の雄鶏の名前になっている。王に対して危険や脅威があるときにそれを知らせる精霊の象徴としての鹿もある。王の乗り物としてのbanyakあるいは白鳥もある。(Suyono, 2007:253) <244>

厄除けと家宝へのjamasanの儀式は、各々の家宝に存在する神聖なオーラと結びつけるがゆえに行われるのである。この神聖さは、一般的にsemu ireng、白黒、明るい黒と輝く白の色の特徴と形にみられるのである。一方、その鉄の中で指示される形は波紋と呼ばれる。ジャワ人の所有している家宝は一般的に子から孫へ伝えられ、それは家族の宝となるのである。その神聖さの視点であるからこそ、あらかじめ定められた日時に、jamaswaranganなどの清掃を伴った維持作業を行うのであり、それどころかその後にジャスミンの花輪を捧げることもある。

 

第十二節   メラピ山の火山泥流祭りと雨ごいの儀式

Merapi(2,914m)は、その美しさに驚かされる自然と展望を我々に与えてはいるが、現在に至るまでインドネシアで最も危険な活火山として認識されている。地理的にはジョグジャカルタ特別州Sleman県と中部ジャワ州Magelang県、同Boyolali県、同Klaten県の境界に位置している。ジョグジャカルタ市から北へ30kmMagelang市からは東に20kmBayolali市からは西に25kmで、Klaten市からは北へ25kmである。<245>

1938年出版のAtlas Tropische Van Nederlandのシート21によると、Merapi山は南緯732.52分、東経11026.52[25]である。海抜2,914メートルである。南北方向にはジョグジャカルタ特別州と中部ジャワ州との境界点で東西方向にはジャワ島を南北に分けている。(Triyoga, 1990)

Merapi山はジャワ人に、Mataram王朝の守護神であり、南海の女王陛下の味方であると信じられている。Merapi山の神話を理解するうえで、第一にジョグジャカルタの町と王宮との哲学を切り離すことはできない。この町は南海とParangkusumo-Panggung Krapyak-Keraton-Tugu Pal PutihMerapi山に関連する想像上の軸で分割されているのである。この件は哲学的に二つの観点、Jagat AlitJagat Agengに分類される。

命の始まりと終わり、すべての正しい行動での人生を解析することで命と人生の真実を知ることができるJagat alitは、ジョグジャカルタが当時の王都としての計画額によって描かれていたのである。この都市計画は南北にはPanggung Prapyakから始まりTugu Pal Putihで終わっている。この件は、創造者とその創造物である人間の間の相互関係を強調している。(Sangkan Paraning dumadi) <246>

人生において人間はこの世でのいろいろな楽しみに誘惑される。この誘惑はBeringharjo市場[26]の形で描かれる女性と財産となることができる。創造者に近い人間の象徴として(Jumbuhing Kawula Gusti)、誘惑はすべてが王宮とTugu Pal Putihの間の直線道路の右側にあるkomplek Kepatihan[27]によって描かれた力にもなる。

Jagat Agengとは、大衆の指導者がどこであれ、強靭な心を持ち唯一審への信仰に基づいた好意を持つ誰であれ第一夫人として大衆にとって心身ともに平安を形にする機能を命と人々の生涯について説明するものである。このJagat Agengとは南海のParangkusumoからジョグジャカルタの王宮とMerapi山を結ぶ想像上の線で描かれている。この話は、この世に生きていて、どこでも個人が命と人生の真実をずっと以前に理解しなくてならず人生の完璧さに至ることができる、といった人間の関係に重点を置くものである。(Manunggaling Kawula Gusti)

Merapi山はジャワの神話において、南海とPanggung Krapyak、ジョクジャカルタの王宮、Tugu Pal PutihさらにはMerapi山を結ぶ、永遠な想像上の軸と神秘的な線でイメージされる霊界の王都Swarga pangrantunanとして重要な位置に鎮座している。<247>このシンボルは、人が生まれてから偉大な創造主に対面するまでの人生の過程に関する意味を有している。

しばしばMbah Marijenと呼ばれているR. Ng. Surakso Hargoという名のMerapi山の管理人が語ってくれた当地の伝承によると、Merapi山の宮廷はEmpu RamaEmpu Permadi (Kyai Rahmadi)によって支配されている。人間が生まれるずっと前に世界は傾いていて不安定であった。Batara Guruはこのふたりのempuに、世界を安定させるためジャワの家宝としてのクリスを作るように指示した。当初南海にあったJamurdipa山をジャワ島中部、現在のジョグジャカルタの北方でふたりのEmpuがその仕事をやっている場所、に移すために天人たちをまだ派遣していなかったとはいえ、なのであった。それゆえ、その行動を移転することを希望しないこともあり、Sabda Pandhita Ratu(言行一致)を手引きとするように主張したので、天神たちとこの二人のEmpuたちの間で戦いが起こり、最終的にEmpu側が勝利したのであった。

天人たちの敗北を聞いて、Batara Guruは、Jamurdipa山を北に吹き飛ばしてかまどの真上に落ちてEmpu RamaEmpu Permadiを生き埋めにするようにとBatara Bayuに命じた。しかしながら彼は死なずに他の形に姿を変え、最終的にはその地の霊界王宮の支配者となった。それ以来、その魂はMerapi山の王国を統治するためにあると信じられている。Merapi山の宮廷のひとたちは、生前、常に善行をした人たちの魂のコミュニティなのである。悪行ばかりした人の魂はMerapi山の宮廷の霊界の社会には受け入れられず、一般的にはあちこちをさまよい続け、巨石や橋、崖などに取り付いて地縛霊となるのである。

Mbah Marijan1996年のインタビューで話してくれた他の民間伝承によると、こうである。ちょうどMataram王国の創始者のPanembahan Senopati (1575-1601)が統治していた時のことである。Panembahan Senopatiは、南海の支配者である南海の女王陛下という名の恋人がいた。<248>この二人が愛し合っていた時に彼は食用としてendhog jagad(世界の卵)を与えられた。Ki Juru Mertaniが、この「世界の卵」は食べるためではなくKi Juru Tamanに与えられただけであると王に忠告した。Ki Juru Tamanがこの卵を食べたところ、ぞっとするような顔の巨人に変身してしまった。その後Panembahan Senopatiはこの巨人にMerapi山に行き同地の宮廷の宰相に取り上げることをKyai Sapujagadの言葉を通じて命令した。

その神話に味方するものとしてのMerapi山の宮廷になった南海の女王陛下の存在に関連して上に述べたいくつかの海神祭り以外に、社会はそれに類似したいくつかの伝統行事を有しており、それはBecekan[28]の儀式とBanjir Lahar[29]の儀式である。

このBecekanの儀式は乾季における雨乞いの儀式でSlemanCankringanKepuharjo村に伝わっていて、河川改良あるいは維持を意味するDandan KaliあるいはMemetri Kaliとも呼ばれている。この地域では河川水が地域住民の農作業にきわめて重要である。不思議なことにこの儀式の直後に必ず降雨があり、土がベチャベチャになるのでbecekanと呼ばれている。Becekはヤギ肉のgulaiが供物としての意味も持たされている。この儀式を行う集落はPagerjurangKepuhManggongである。この儀式はいくつかのステップに分けられる。最初はKepuh集落の泉での禊(この地域ではこの集落にしか泉がない)で、二番目はGendolの中での雨乞いの儀式で、三番目はそれぞれの集落での特別な儀式である。

この儀式は、土地が肥沃になり住民が健康で安全で平穏であることを神に願う祈りを意図している。この儀式はpranotomongsoが用いられmongso kapat[30]Jumat Kliwonの日に実行されるが、mongso kapatJumat Kliwonと重ならないときはmongso kalimo[31]に延期され、その日は神聖な日と理解される。<249>この儀式はこの三つの集落の人たちに伴われたmodinに主導される。この儀式全般を通じてすべて男性のみで行われ、供物に女性は手を触れてはならず、供物となるヤギも雄でなければならない。Eyang Sapujagadのため以外に、この儀式で祈りを捧げられる精霊は南海の女王陛下なのである。

一方、火砕流の儀式は特に火砕流や土石流に見舞われるMerapi山の付近の住民の伝統の一つとして行われている。そのひとつは、火砕流と土石流がしばしば通過する村の一つであるSlemanCangkringanSindumartaniTambakan集落で観察できるものである。

この儀式は、火砕流や土石流が通過すると思われる川に青いココヤシを供えることで災害を避けるべく安全と神の加護を願う祈りを形作っている。これは先祖代々受け継がれてきた土石流が起きる兆候が出た時におこなわれるのである。

Merapi山を源流とする川の岸に住んでいる人たちは時々夜間に、奇妙な音を聞くことがある。<250>これはMerapi宮廷の親戚が南海の王国の住民と結婚するためにお祝いの使節を送るしるしとなっている。このことは、すぐにこの川を流下する火砕流や土石流があるという兆候として理解されており、これを知っている人たちは至急安全確保を行うのである。

色々な手順で行われる厄除けの目的には、Merapi山の霊界の住人が近郷近在の住民の安全や災害から免れることを妨害したりせず人間と自然界のと調和を創造するべく、神に安全とご利益を願うものもある。人間の行動がネガティブであるときはいつでも自然界も同じような性質を持つのである。

Merapi山麓の住民たちの知恵となっている平衡の概念とは、正しくかつ平衡を保っている自然界のルールを逸脱したときに霊界の住民たちが激怒すると彼らが信じている評価基準に従って実行するものなのである。その調和はお供え物によるだけではなく、エコシステムの完全無欠さを守るために常に調和と平衡を保つといったルールから逸脱しないための常なる努力によるのである。

これととともに著者は、中部ジャワ州、まずはMerapi山の近くと山麓に住んでいる人たちの信心を見つけ出した。この信心は、Selo (Merapi山北側)Cepogo (Merapi山東側)Kaliurang (ジョグジャカルタ南側)地域に住む人たちへのインタビューに基づいて書かれている。

Merapi山は霊界の宮殿として信じられている。Mataram王朝の開祖のPanembahan SenopatiKi Ageng Pemanahanのロビー活動によるMerapiの支配者の援助を得てPajang王国に対する戦争で勝利を得たのであった。他方、Panembahan Senopatiは南海の王国にもロビー活動を行った。同地の住民は、彼らが「bangsa alus = 霊的存在」とよぶ人間以外の存在も人間とともに住んでいると信じている。<251>

Merapi山地域の住民は怖いあるいは神聖な場所があちこちにあると信じている。怖い場所は霊的存在に守られている場所であり、そこは冒してはならず、尊ぶべき霊の力を有していると信じられている。住民は、その地域での樹木の伐採、草刈り、存在するものの移動が禁じられている。この禁忌以外に、この地域に住んでいる霊的存在の気に障ることから。汚い言葉を使うこと、大小便をすることも禁じられている。神聖な地域に存在すものは直接現実化すると言われているから、かれらは、肉体的疲労、重い負担、疲労、病気などの悪い感覚を持つことも禁止されている。

Merapi山で最も神聖な場所は、Merapi山の霊界の宮殿で王宮の中心としての火口なのである。Merapi山頂上の直下には、とても申請だと同地の人たちに信じられている。Pasar Babrahという名の岩と砂だけの地域がある。このPasar Babrahは、Merapi宮殿の中央市場であると信じられていて、そこに散らばっている巨石は霊たちの屋台やテーブルや椅子として理解されている。こここそが霊界の市場なのである。

神聖であると考えられているMarapiの霊界の王宮の他の部分は、Merapiの宮殿の入り口として使われているWutoh山である。このWutoh山はその地域の動植物を含めた環境を守護する霊のNyai Gadung Melatiによって管理されている。

Merapiの宮殿と直接関係する場所以外に、申請と考えられている場所もある。Siekh Djumal Qubroの墓地がある地域は、その墓がその地域住民の先祖のものであり、敬意を払わなくてはならないために、神聖な場所となっている。Watu Bolongという名で知られていて神聖な場所として考えられている頂上の南東側にあるEmpu Permadi (Kyai Rahmadi)の墓所も同様である。<252>

同様に森や泉、沐浴場、川、崖のような他の場所も、すなわちPatuk Alapalapの森(この森はMerapiの宮殿が所有する牧場として使われている)GamelanBingunganの森、PijenBlumbangの森、Turgoの丘、PlawanganPutri湖、MuncarGoa Jepang, Umbul Temanten, Bebeng, Ringing PutihWatu Gajaは神聖な場所として理解されている。その東側には高度な魔力を有するBibi山が見られる。Dung BiruあるいはWatu batangGua HarimauKyai Petrukとして呼ばれている地域は聖地として好まれている。

Eyang Merapiが所有するMerapi山の周囲の森には数種類の神聖な動物が生息している。森の動物は、まずはBlumbangに生息している白虎や、狩猟が禁じられている北側の森のOmpong虎である。それに続いて、Patuk Alap-alapの森やWutoh山付近、Selokopo Nigisor山とGajah Mungkur山の中間に生息している野生馬は、乗り回したり車を引く動物としてMerapiの霊界の宮殿の人たちが使うものとして理解されている。

Merapiの頂上にはMataramの宮殿に似た宮殿があり、ここにすべての行動を統御している政府を制御する独立組織がある。このMerapiの宮廷は、現地の人たちの信心によると、Empu RamaEmpu Permadiの兄弟が支配されている。この宮廷で南海の女王陛下としょっちゅう出会うことがあると信じられている。

この一件のように、Empu RamaEmpu Permadiの国家元首とする政府は、Merapi山の自然環境を制御するべくKyai Sapu Jagadにその権力を託している。

これに続くのは、Merapiの植生の維持を任されたNyai Gadung Melatiである。宮廷が所有する家畜の世話と霊界の軍隊の司令官としてのKyai Kartadimejaもいる。彼はもっとも有名な人物で、Merapiがいつ噴火するかや、安全確保のために何を行うべきかをしばしば教えたりするので、住民に好かれている。<253>次の人物は、軍人でMerapi山の地域の霊界の管理人として知られているKyai Petrukである。Kyai Petrukはもとは人間でありMerapi山の東側の地域に住んでいたKi Ageng Handakakusumoという名のキアイでありBibi山地域を支配している。彼はまたMerapi山地域を源とする水が変わらないように維持することを仕事としている。

霊界の人物たちが与えた仕事はこのように大きく、Merapi山に対する愛情と感謝の気持ちを有形化することとして、Merapi山付近の住民たちは、信仰の伝統儀礼の形を通じて供物を捧げているのである。信仰儀式を行い、神聖化することを通じて、Wilujengan=厄除けを行うことで、これはジャワ人の宗教的な伝統になってしまっている。

Labuの儀式とlarunganRajabの月の30日、Sri Sultan Hamengu Buwono Xの誕生日に行われる。この儀式は、宮殿の管理人であるMbah Marijanが住んである。Umbulharjo村のKinahrejo集落がその中心である。

住民たちが安全で平穏であり豊作になることを願ってSelo郡では毎年ジャワ歴元日のSuroの月の1日にSedekah Gunungの儀式が行われる。この儀式ではMerapi山頂のPasar Bubrahに水牛の頭を埋めるのである。一方、Cepogo郡地域の一部ではSafarの月のすべてのSelasa KliwonJumat Kliwonの日にWilujenganをおこない、ジャワイスラムのウラマの制作である安全祈願の祈りと厄除けの祈りで終わる、Merapiを源とする水に対する感謝、安全祈願を伴う伝統儀式が行われている。

 

第十三節   Suroの月における冥府の女王の婿取りに関する神秘とその儀式

現在では既に少しずつ減っては来ているものの、Muharramの月に、まずは結婚式や地鎮祭を行うのを避けるジャワ人はまだたくさん存在している。これは、Muharramの月には南海の女王陛下(南岸の支配者)が独自で結婚式を挙げているため、ジャワ人たちが祝い事を行うのを好まないという理解がジャワ社会に存在するからである。これまでのところ、著者の調査でははっきりしたことはわかっていない。

上述のように、南海の女王陛下は確かに存在するのである。それは人間界から見てもう一つの世界を構成している霊界の存在である。南海の女王陛下とその臣下たちも人間と同様に必要とするものがある生き物でもある。

Muharram月の伝統、Suronanと南海の女王陛下と結びつけてみると、ジャワ文学のみならず他の伝承も含めてもこの話は確固とした前例を有してはいないのである。このように、Suroの月の南海の女王陛下の結婚披露宴(婿取り)に関する理解は除外しなければならないのである。

既にみてきたいろいろな伝統儀式以外に、ジャワ人は個人だけではなくグループでも、神聖な日あるいは好い日と考えられている特別な日、あるいはその当人が重要だと考えている必要性に起因していることによって、一般的には普通の人考えられている日にも、上記の神聖な時にこのような伝統儀式を行うのである。例えば、labuhanやワヤンを含んだ舞踊などを、厄除け、安全祈願などのために行う。一般的にこれらの伝統儀式で霊界と超自然界とが、南海の女王陛下の存在と関連して常に結び付けられているのである。

Parangkusumoの状況はこのようなものである。伝統儀式である海神祭りとCepuri Parangkusumoでの神の恩恵を神聖である特定の日に願うこと以外に、普通の日でも訪問者や参詣者は常にあり、瞑想を行ったり、必要によっては海神祭りまで行って南海の女王陛下の助力を願ったりしている。彼らは早く解決しなくてはならない問題や必要なことかあるので彼らは南海の女王陛下にそれを奏上するためにParangkusumoに来るのである。奉納の儀式やSela gilangでの奏上のためには、普通はそこの管理人を経由するか、Panembahan Senopatiと南海の女王陛下に奏上できる人を連れてやってくるのである。一般的にSelo Gilangにおいて南海の女王陛下とpanembahan Senopatiへ奏上するためには特定の段階と行為が必要とされる。Selo Gilangでの奏上の後、彼らの目的のために安息香を焚き海に献花するためにParangkusumo海岸に行くのである。

意図される特別な重要事項とは、病気治癒や南海岸での行方不明者の捜索や消息を尋ねること、霊的な指示、wetonの日の合同苦行だけ、仕事上あるいは家族などの問題解決を願うような急ぎの案件である。それゆえ確かに、ruwatanlabuhanなどのいろいろな儀式は神聖の日だけにみられるものではない。<256>そのすべては個人的な必要性にかかわるものであり、アルクルアン第97 Al-Qadr章の節に述べられているように、天使と共にこの世での問題を制御したり解決する業務を有する精霊の一つとして信じられている南海の女王陛下を仲介者として神に祈るためには重要であると彼らは考えている。

 

第十四節   純粋なジャワイスラムの厄除けの祈祷

どんな厄除け儀式でもジャワムスリムの基本は、最後の審判までの間の安全を願うという意味を持つ安全祈願として知られるものを一般的には読むのである。この呪文は著者がこの本の著作時点まで調べたところではイスラムで推奨されている[32]本にみられるものではなく、さらにはインドネシア以外の世界中のムスリムからは聞いたことがないものである。この呪文は、labuhanなどに続くruwatanの伝統儀式の終了の呪文となっていることを含めて、色々なジャワイスラムの伝統儀式で常に読まれるものである。安全祈願の読誦は、安全、安泰、安穏、平和が障害になく続くことを意味する厄除けの呪文を必ず伴っている。

ジャワの高齢のキアイの話によると、この厄除け呪文は確かにジャワイスラムの特徴であるとのこと。この呪文は、KH Sholeh bin Umar as-Samarani (1908年没)、あるいはMbah Shaleh Darat Semarangと呼ばれている人によって作られた。この方が、そのすべてが幸福な一生、すべての人生の階梯における安全が読み込まれている、この安全祈願だけの呪文の抜粋を作った。この呪文は以下のとおりである。

「アッラーよ、宗教の安全と安寧、身体の健康、知識の追加、幸運と神の恩恵、生きているうちに懺悔を受け入れてもらうこと、死んだときにはお慈悲を下さることをわれらは心から願う。アッラーよ、難しい時代には我々を楽に生きるように、最後の審判の時にはお許しを願うとともに地獄の業火から救ってくださるように」。

ジャワムスリムにとっての上記の安全祈願の祈りは厄除けの呪文であり、すべての災難や悪事、受け入れられないような試練を拒否する呪文であるとともにアッラーに許しを得るための鍵となる呪文のようなものである。このLidaf’ al-bala’の呪文は、アッラーの加護を得るための祈りでジャワ人を楽に生きさせるために、またこの世と最後の審判のあとのすべての厄災から守るようにSunan Kalijagaが作ったものなのである。

「すべての懊悩、試練、困難、悪事、背徳、種々の煩悩、悲しみ、回教国から取り去った、特に我が国からは見えない試練を伴った試練を取り去る本当にあなたであり全知全能なアッラー。ああ、慈悲深きアッラーは恩恵をもって我々と彼らのすべてを許したまう。」

この二つの呪文はジャワのムスリムにとって、毎回の安全祈願と、誕生・結婚・死亡の人生のサイクルに関連して必要とされる儀式において「義務とされる祈り」とされている。これらはlabuhanの儀式の時や南海の女王陛下の存在に結び付けられている種々の伝統儀式のときに読誦されるのは当然なのである。

 

第七章 訳出終了 2019/9/12



[1] 一般的には断食月(ラマダン月)15日とされている。この日は「悟りが得られる日」と考えられているのでいつもより入念に礼拝をおこなう。

[2] みいつの章。「カドルの夜は千の月より良い」

[3] スラウェシ出身の元宗教大臣

[4] 2:それこそは,疑いの余地のない啓典である。その中には,主を畏れる者たちへの導きがある。3:主を畏れる者たちとは,幽玄界を信じ,礼拝の務めを守り,またわれが授けたものを施す者。

[5] インドネシアでは一日は日没から始まる

[6] イスラム的生活の手引書

[7] 青菜を主体とした透明なスープ。最も粗末な食べ物と言われている。

[8] Ingkang Sinuwun

[9] mujuk atur

[10] 「演舞の前に身を清めていなかった」という意味。

[11] Selasa Kliwonの日の別称

[12] めいめい好きなものを食べるという意味か?

[13] イスラム信仰の手引書

[14] 預言者ムハンマドの言行集。イスラムの新約聖書ともいわれる。

[15] イスラム神秘主義者

[16] 神に近づくための方法

[17] バナナのおかゆ

[18] ココナツミルクで炊いたご飯

[19] 本文ではpisang satu rakit

[20] tahannut

[21] イスラム教スーフィズム教団(タリーカ)のひとつ

[22] クルアンの抜粋

[23] 金や鉄その他の金属の合金でお守りにする。

[24] 錆止め用

[25] Google mapでは南緯732.43分、東経 11025.74

[26] ジョグジャカルタの市場の名前

[27] ジョグジャカルタ特別州役所

[28] 雨乞い

[29] 火砕流あるいは土石流

[30] ジャワ暦の第四期

[31] ジャワ暦の第五期

[32] Ma’tsurat

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