嗚呼、インドネシア
32話 トロウラン遺跡
2. 博物館


2.1
博物館設立までの経緯
 多数の熱心な専門家がトゥロウラン地域の遺跡調査を行った。トゥロウラン地区の最初の調査結果は1815年にWardenaarによるものであった。彼はラッフルズ卿 (Raffles =英国シンガポール総督)からモジョクルト地域遺跡保存の仕事を与えられ、その成果は二冊の"History of Java " (1817)にまとめられた。この報告書ではトゥロウラン遺跡はマジャパヒト王朝のものであることを述べている。Wardenaarに続き、W.R. Van Hovell (1849)とJ.F.G Brumund (1854), Jonnathan Riggが調査を行い、彼らの調査結果は"Joumal of The Indian Archipelago and Eastern Asia"に掲載された。その中でJ. Hagemanは"Toelichting over den ouden Pilaar van Majapahit" (1858)という題でトゥロウランとの関係を述べている。R.D.M. Verbeekは1887年にトゥロウランを訪れていて、TBG, XXXIH, (1889)に"Oudheden van Majapahit in 1815 en 1887"という記事を発表している。その後インドネシア人であるモジョクルト県・県令のA.A. Kromodjojo Adinegoro (1849-1916)はトゥロウランの遺跡保護に大変熱心であり1914年にはCandi Tikusを発見している。同氏はさらにマジャパヒトの考古学的遺物の収集のためのモジョクルト博物館を創設した。"Comissie voor Oudheidkundige Orderzoek op Java en Madura"の一員であったJ. Knebelは1907年にトゥロウランの遺跡の遺物目録作成を行った。続いて、N.J. Kroomは、金字塔ともいえる"Inleiding tot de Hindoe-Javansche Kunst" (1923)に述べた特殊な方法でマジャパヒト遺跡について解説したのである。

A.A. Kromodjojo Adiegoro

Henry Maclaine Pont
 トゥロウランの調査は1924年にOudheidkunddige Vereeneging Majapahitが設立されてからはより熱心におこなわれることになった。1925年には、トゥロウラン遺跡に深い興味を抱いた技師のHenri Maclalne Pontがトゥロウラン遺跡博物館と遺跡発掘事務所を設立した。同氏は1921年から24年にかけてトゥロウラン遺跡の発掘を行い、その調査結果をNagarakrtagamaに記載されている事項と照合しトゥロウランのマジャパヒトの都の復元図を作成したのであった。
 Henri Maclalne Pontに続いたのは1948年発行のVKI, VII"De Kraton Van Majapahit" の著者であるW.F Stutterheimであった。同氏はNagarakrtagamaの記載事項とYogyakartaとSurakartaの宮殿の建築様式や装飾に関してはバリの寺院のものとを比べながらマジャパヒト王宮の再建に努力した。マジャパヒト寺院の再建は、Nagarakrtagama の記載事項を基本としてTH. G. TH. Pigeaudの手によっても行われた。そのスケッチは"Java in en the 14th Century : A Study in Cultural History", 5 jilid (1960 - 1962)に添付されている。
独立後は1953年以降インドネシア共和国考古局のトゥロウラン分室が担当した。最近でもトゥロウランの調査は遺産建造物の修復・保存も伴い熱意をもって続行されている。国立考古学研究センターは1970年以来現在まで発掘を続行している。発掘調査はガジャマダ大学の考古学教室、インドネシア大学の考古学教室が手がけたこともあり、1987年以来毎年計画的に行っている発掘調査を通じてトゥロウランは考古学者の卵の教育の場ともなっている。1983年以降現在まで東ジャワの遺跡保存事務所の協力の元、これら遺跡の修復・保存の努力は史跡遺跡保護局が行っている。
 多数の考古学者とインドネシア歴史研究家によるトゥロウランに関する研究は、マジャパヒト時代における比較的大規模に都市がこの地域に以前に建設されたことがあることを信じさせることになった。多種多様な考古学的遺物の中でも各種の記念となる建築物が再建された。しかしながら、早急に保護・保存を待ち望んでいる考古学的遺物がまだまだたくさん存在する。

2.2 博物館設立後の歴史
 以前にはトゥロウラン遺跡博物館としばしば呼ばれていた、東ジャワ史跡遺跡保護局運営による神像保護事務所は約モジョクルト市南西12kmに位置するトゥロウラン県に位置している。トゥロウラン地域はマジャパヒト遺跡で有名であり、それゆえ同時代以降の大量の考古学的遺物を神像保護事務所が管理している。上記の遺物は事実上住民による発見のみならず発掘を通じて入手されている。当初トゥロウラン遺跡博物館はKanjeng Adipati Ario Kromojoyo Adinegoroとlr. Henri Maclaine Pontが1924年に設立した"Oudheidkundige Vereeneging Majapahit" (OVM)の調査結果による遺物の集積のために利用された。マジャパヒト王宮遺跡の調査をより積極的に行うために、当初ジャカルタに住んでいたMaclaine Pontはトゥロウランに引越し、モジョアグン製糖工場から借りた家に住んだ。この家屋と土地はトゥロウラン遺跡博物館になっている。その後、トゥロウランのマジャパヒトの都の調査はさらに速やかに進んだ。1926年からこの博物館は一般公開された。
 1942年に日本軍が占領した際、Maclaine Pontは捕虜になった。その一年後にジャカルタのあった遺物事務所の萱嶋教授の命令でこの博物館は再開された。Maclaine Pont個人所有物はオークションにかけられたとともに残念ながら博物館の収集物の一部も売却されてしまった。それ以降、1963年にモジョクルト考古事務所が開設されるまで、博物館の運営母体は転々と変わった。モジョクルト考古事務所の管理下で博物館は発展を遂げた。名称はしばしば変わったが、博物館の管理運営は齟齬をきたさず、その後1979年に同事務所は東ジャワ史跡遺跡保護局に昇格しその時東ジャワ遺跡保護事務所ができたのであった。
 年を追うに従い、トゥロウラン地区やそれ以外の地区からの集められた遺物は増加し、ついに1987年にはトゥロウラン遺跡博物館は、元の位置から南へ約2kmの地点に建設された建物に移転することになった。この新しい建物は神像保護事務所と呼ばれ、旧博物館は東ジャワ遺跡保護事務所として使われている。

2.3 保管所の蒐集物
 保管所の蒐集物は、最多数はトゥロウラン地域からではあるが、東ジャワの各地から集められた神像である。神像の形状と材料から蒐集された工芸品は以下のように分類されている。
(1) テラコッタ(素焼)、白い石、安山岩製のレリーフと神像
(2) 鋳型や碾き臼、漁労用の道具などの生産あるいは工芸用の道具
(3) 台所用品や装飾品、家屋の調度品やその他素焼や青銅、鉄、銀、金製品などの生活用品
(4) 祭器
(5) 武器
(6) 碑文
(7) 古銭
(8) 磁器など
 このような大量の蒐集物の中で最も支配的なものは素焼きの神像である。形状分析によるとトゥロウランからの発掘物は二種類に分類される。
(1) 器の形状を持ったもの: 鉢, 素焼きのコメの蒸し器,中型の水がめ、大型の蒸し釜、小型の壷、素焼きの鋳型, サンバルを作る擦りおろし用の石皿,お椀、皿、水差し、土鍋、小瓶、急須、中華なべ、四角の器
(2) 器の形状をしていないもの: 鍋敷き石、直径1m高さ約50cmの井戸枠、,ランプ,建物の模型、水路よう壁、鬼瓦、瓦、峰瓦、投網の錘、グヌガン(ワヤンクリットの)、神像、おもちゃなど。
 上記の素焼き製遺物にはその種類と数量において特徴がみられるため、トゥロウラン神像保護事務所では素焼き製遺物のみを集めた特別室を設けてある。
 神像保護事務所は充分に広い57,625m2の敷地を有するとともに、遺跡の発掘品を展示している。この地域はマジャパヒト時代から居住地区とされていて、建物の横にそれが見られる。博物館の建物は二階建ての本館とあずま屋ふうの吹き抜け構造になっている平屋の四棟から構成されている。博物館への見学者がこれらの陳列品を理解しやすいように、蒐集物の付近に英語とインドネシア語で説明したカードを置いてある。その他には、博物館職員が常時待機していて見学者の質問に答えられるようになっている。

2.4 博物館陳列室案内
2.4.1 神像保護事務所展示室(博物館)本館
一階 展示室 A 発掘された各種の素焼製品を展示
一階 展示室 B (非公開) 各種の粘土及び石製品を展示
二階 展示室 A 各種の鉄、青銅、銀製の武器、祭器、古銭、板碑を展示
二階 展示室 B 青銅および鉄製の馬具や牛につける鈴などと家具などを展示
二階 展示室 C 鉄及び青銅、銀、黄銅製の家庭用品、装飾品、楽器を展示

2.4.2 吹き抜けの展示室
吹き抜けの展示室に展示されている蒐集物は安山岩、硬質の白色石灰岩、粘土製の各種の神像、レリーフ、板碑、花瓶, 井戸枠、家の模型、水浴用水ため桶、六角のレンガなど。

2.5 博物館の外観
心無い人たちの破壊行為の結果
 左側に見える二階建てが本館で、右側の吹き抜けの建物が展示室になっている。

 博物館の入場券はこちら。これは2007-01-31に訪問した時のもので、今回5月18日は開館前に横の入り口から入ってしまったため、入館料を踏み倒してしまった。
 今回の訪問のときには、いろいろな質問に対し館長のアリスさんに直接答えていただけたのが幸いであった。


2.6 博物館のコレクション
2.6.1 アメルタメンターナ Amertamentana
発見場所 マラン県アンペルガディン郡タマンサトリアン村
Ds. Tamansatrian, kec. Ampelgading, kab. Malang.
材質 硬質白色石灰岩(Tufa)
寸法 高 = 250 cm, 幅 = 52 cm, 奥行き = 75 cm
時代 マジャパヒト
発見年 1969

 この寺院のミニアチュールは、命の水を探すヒンドゥーの物語であるアメルタメンターナあるいはサモドゥラメンターナが浮き彫りされている。アメルタメンターナの物語はアディパルワの中の一つの物語であるマハバラータ神話第一部から取られたものである。普通は濠などで囲まれた真ん中に置かれるものであるこのミニアチュールの塔にはこの物語が刻まれている。この位置はアメルタメンターナをそれ自身で象徴しているのである。
 アメルタとは神々の飲み物であり、永遠を象徴している。というのはこれを飲んだ人は誰でも死から逃れることができ、のみならず蘇生できるからである。アメルタは海を攪拌することでできるものである。海を攪拌する道具はマンダラ山である。一番下はウィシュヌ神の化身である亀で、バスキ神は蛇に化身してこの山に巻きついている。その尾は神々に頭部は阿修羅たちにつかまれている。神々と阿修羅たちはかわるがわる蛇の尾と頭を引っ張り、マンダラ山を回している。その少し後に次々と海から出てきたのは、まず天国の歓喜の女神、ウィシュヌの妻である幸福の女神ラクスミ(Laksmi)、白い天馬ウチャイスルラヤ(Ucaisraya)、光り輝く宝石のカウツッバ(Kaustusbha)、豊穣の木パリジャタ(Parijata)、最後はアメルタを入れた水差しを持つ医術の女神ダアンワンタリ(Dhanwantari)だ。マンダラ山は神々が鎮座している場所とされるのみならず世界の象徴と解釈されているジャワ島のマハメル(Mahameru)山としばしば同一視される。このようにして、命の源であるアメルタを製造するために神々が働いているとこの物語は伝えている。


2.6.2 ガルーダに乗ったウィシュヌ Wisnu naik Garuda
発見場所 パスルアン県グンポル郡ワナソニャ村のブラハン寺院 
Candi Belahan di Ds. Wanasonya, Kec Gempol. Kab. Pasuruan.
材質 安山岩
寸法 高さ = 170 cm, 幅 = 53 cm, 奥行き = 30 cm
時代 クディリ
発見年 記載なし

 このウィシュヌ神像はアイルランガ王をガルーダを操るウィシュヌ神に具現化したものである。この神像はモジョクルト神像倉庫に保管されていたが1991年にこの博物館に移動されたものである。アイルランガ王が王国をジャンガラ(Janggala)とパンジャル(Panjalu)に分割した後、同王は頭を丸めレシ・グンタユ(Resi Gentayu)と改名し修道僧となった。存命中アイルランガ王は王国の繁栄とダルマワンサ・トグウ治世下に起きたヲラワリ(Worawari)王の攻撃による治安の不安定に混乱した国民の安定に貢献した。その経緯によりアイルランガ王が亡くなったときに、世界の平和維持を行う守護神で擬人法的に描かれた怪鳥ガルーダを操るウィシュヌ神に祭り上げられたものである。ウィシュヌ神の乗り物として以外に、ガルーダも解放の象徴とされクディリ王朝(Garudamukha)の象徴になった。聖像学においてガルーダは翼を広げ2ないし4本の腕をもつ人間の体をもつ大鷲として表現されている。
 二本の腕は伸縮するように、残りの二本の腕は傘と水差しを持ち片足は蛇を踏みつけている。このデッサンはマハバラータのParwa Iにあるガルーデヤの物語にしたがっている。アイルランガ王は1048年に没し、プナングガン(Penanggungan)山麓にある寺院群があるティルタ(Tirtha) - Belahan村に埋葬された。


2.6.3 ビマ神 Bima
発見場所  プロボリンゴ県アンドウンビル郡ティリリス村
Desa Tirils, Kecamatan Andungbiru. Kabupaten Probolinggo
材質 安山岩
寸法 高さ = 133 cm, 幅 = 49 cm, 奥行き = 48,5 cm
時代 マジャパヒト
発見年 記載なし



2.6.4 ムナクジンゴ Menakjinggo

発見場所 モジョクルト県 トゥロウラン村 字ウンガウガハン ムナクジンゴ寺院
Candi Menakjinggo di Dukuh Unggah Unggahan, Ds. Trowulan, Kab. Mojokerto.
材質 安山岩
寸法 高さ = 143 cm. 幅 = 47 cm, 奥行き = 38cm
時代 マジャパヒト
発見年 記載なし

 この神像はモジョクルト神像倉庫に保管されていたが1991年にこの博物館に移動されたものである。この神像が発見された地区の住民によると、ムナクジンゴとと言う名で呼ばれていた。オランダの記録では次の特徴からこの神像はマハカラ(Mahakala)あるいはバヒ・ラワ(Bahi Rawa)と呼ばれている。
 巨人のような容貌をし、目は大きく開かれ、蛇と右腕はナイフをつかんでいる。しかし、オランダの記録には記載されていないほかの特徴から、このミナクジンゴ神像は、翼を持つこと、拍車をつけた足、以前は嘴を形どっていたと思われる破損した口の部分からガルーダを形どったものとも疑われる。
  


2.6.5 その他
 2007年1月31日に再訪したときと、以下の地図と王族の系図が書きかえられていた。

Majaの木

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2007-05-19 作成
2007-05-24 校正
2015-03-08 修正
2016-08-23 更新

 

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