嗚呼、インドネシア |
第29話 ジャワヒンドゥー寺院・グヌンカウィ |
2006年12月17日、晴れ。 日曜日に20年前に一度訪れたことがあるマラン市郊外のグヌン・カウィに行ってみることにした。この山はLegi・金曜日の前の夜はお祈りが聞き届けられるとあって商売繁盛を願う人たちでおしあいへしあいで賑わっているとのことだが、日曜日はそれほど混んではいなかった。 この山には商売繁盛・家内安全を祈願する下のお堂とヒンドゥー寺院であり、いまでも華人たちで参詣が多い奥の院のヒンドゥー寺院がある。 まずは下の宮からはじめよう。 ちゃんとした門前町はあるのだが、駐車場から裏道を通って下のお堂の横に出た。お堂の前に回りこんで驚いた。参詣者はヒンドゥー、仏教徒よりもジルバブをつけたムスリムが多かったのだ。 門前町と山門はこんな感じであった。 |
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061217Ko-01s 門前町の風景 |
061217KU-02s 山門・ここに祭られている人たちの一生が浮き彫りにされている |
お宮の入り口にはこんな石碑が置いてあった。 |
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061217Ko-05s 石碑。後ろがお堂である |
石碑にはこんなことがインドネシア語で刻まれていた。 「カウィのお墓」 ここには以下の人たちが埋葬されている。 1. カンジェン・キアイ・ザカリア二世 この方は通称カンジェン・パネンバハン・ジュゴと呼ばれていて、グレゴリオ暦では1871年1月22日に亡くなった。カンジェン・パネンバハン・ジュゴはカンジェン・キアイ・ザカリア一世の息子であり、貴族のディポネゴロの七代子孫にあたる。1705年から1971年までカルトスロ王宮を支配したカンジェン・ススフナン・パクブオノ一世のひ孫。 2. ラデン・マス・イマン・スジョノ 1876年2月8日に亡くなった。 ラデン・マス・イマン・スジョノはラデン・アユ(お姫様)の夫であるノトディポの息子である。ジョグジャカルタの宮廷の高官(ブパティ)であった、パゲラン・ハリオ・バリタルの孫にあたるとともに1755年から1792年までジョグジャカルタを支配したハメンクボヲ一世のひ孫にも当たる。 |
このお堂は標高約900mの位置にあり、お堂は南から東に約30度よった方角に向けて建てられていた。この反対の方角はキブラ=「メッカの方向」である。通常ムスリムは頭を北にして顔を西に向けるように埋葬しているのだが、この墓所ではキブラに向いていた。 ガイドさんの話によると、ここに埋葬されている人たちは超能力者であり、人種・宗教を問わず病気や不幸で困っている人たちを助けてきたとのこと。亡くなる前には、誰でも墓参しても良い旨言い残していたとのことである。インドネシアでは偉人のお墓に詣でて祈願成就している人が多い。林紹良(リムスーリョン)はじめ多数の大財閥のオーナーたちがここで祈願して成功した。特に林紹良は、仏教の祈祷所やモスクまで建設寄贈したとのことであった。 次は奥の院である。奥の院はこのお堂からしばらく下がったところから分かれた道をカウィ山に向かってぐんぐん登ったところにある。参詣者はあまり多くないと見えて、丸石を敷き詰めたジャワの伝統的な道であった。雨天の際には乗用車では難しいとおもわれる。 これから起こる事件も全くわからずに我々三人は興味深々で上のお堂に向かったのであった。 |
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061217Ko-10s 自動車が通れる参道の終わり |
061217Ko-11s 駐車場は広いが車があまり来ていない |
061217Ko-09s 寺院への参道 |
チャンディチェトとはことなり、奥のチャンディから出てくる光はこの参道の中心から約0.5メートル東側にずれていた。これは建設当初から地震や地すべりなどで寺院が全体的に東側にずれているためではなかろうかとおもわれる。 ここのガイドたちはどこか胡散臭い感じがした。 |
駐車場から続く階段を上ると「一の宮」があった。 |
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061217Ko-15s |
一の宮で線香をあげ、お祈りする我々。 この祭壇の左隣のカーテンの中の闇の中に、半分磨り減ったような石像があった。彫刻のモデルから前ヒンドゥー時代と思われる。ここにいた男性たちはとても胡散臭くて怪しかった。 |
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061217Ko-17s このおっさんは毎日ここで寝ているのだろうか。 |
紺色の服を着ているのが、下のお堂からわざわざオートバイではるばる道案内してくれたガイドさん。 薄い青色のポロシャツの男性は上のお堂の案ガイドのようであったが、腕に刺青をしているところを見るとちかくのごろつきなのかもしれない。 |
下のお堂の前には大木が生えていて、これもここのご神木になっているようだった |
これからおきる事故を知らない我々はそのまま上のお堂に向かったのだった。 下のお堂の西側を通る参道を北に向かう階段の上に上のお堂はあった。お堂に向かって左側にブリギンの巨樹がそびえていて、その木に向かって独立戦争のときにスカルノがここまで逃げ込んで必勝祈願をしたとのことであった。 |
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061217KU-12s 上のお堂へ向かう参道。 |
061217Ko-20s ブリギンの巨樹 |
061217Ko-19s ブリギンの巨樹の裏にひっそりとたたずむ祠 |
061217KU-14s スカルノにならって、巨樹に話しかけてみた。 |
061217KU-16s 上のお堂 |
061217Ko-22s お参り来ていた子供たち |
061217Ko-23s 上のお堂から下のお堂をみる。 この方角は南から西に5度寄っていた。 この位置で標高1150mであった。 |
このあと事故は起こった。 午後1時15分頃、下のお堂の横の階段で小生が誰かに後ろから押されたように前につんのめり、そのまま顔面着地をしてしまったのだ。スキーゲレンデならともかく、ぶつかった相手は石の階段であったため、上左門歯欠損、その左隣の歯は根元から抜け落ちてしまい、その歯と犬歯との間の歯は歯茎の直上から折れてしまったのだった。 頭には大きなこぷと擦過傷、唇から鼻にかけてと両ひじ、右手にも擦過傷、右手親指の部分と両膝の上の部分には打撲を負ってしまい、瞬時ではあるが失神したようだ。 この被害者そそのまマランのRKZ病院の救急室に担ぎ込まれた。同行者には怪我はなかったが、たのしかるべき日曜日にひどい目にあってしまった。 ウエブサイトを借りてお詫び申し上げたい。 |
グヌンカウィの一の宮に安置されていた石像は撮影できなかったが、この石像はポリネシア風な容貌をしていた。この種類の石像はプグン・ラハルジョにも、チャンディ・チェトにも似た容貌のものがあった。 ということは、インドネシアの宗教史上では、最初にポリネシアの原始宗教が存在し、その上にヒンドゥーと仏教、さらにはイスラムが乗っていることになろう。 すなわち、原始的なポリネシア系の人たちが住んでいた土地に高い文化を持つ多数のジャワ人が侵入して混血を繰り返すうちに現在のジャワ人が出来上がったのではないかとも考えられる。ジャワ人の移動説は「海を怖がるジャワ人」に書いてある。 現に、ジャワ文化の中心であったジョグジャ付近と中心から離れたマラン付近では同じジャワ人といっても体型も顔も異なる。マラン付近の方が体型が華奢で顔が小さく色黒の人が多いようだ。また、よく観察するとジャワ人の中には頭蓋骨の間口が狭くて奥行きが長く、小顔の西洋風な顔立ちをした人と我々日本人のように頭の奥行きが浅い人もみかけられる。 |
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一般的にグヌンカウィの神様は、希望を成就してくれるがそのかわりに犠牲を求めるという残酷な神であるといわれている。 今回の事故で歯を失ったが、カウィ山の神様はどんな希望を叶えてくれるのだろうか。参詣の時にはなにも祈願しなかったけど。 事故の話をインドネシア人の同僚たちにしたところ、「日本人ばかりでいくからこういうことになるのだ。魔よけの方法を熟知している我々を誘わなかったのが悪い」と叱られてしまった。 |
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この日はなにかおかしなことばかりが起こった。まず、いつもなら出発するときに必ず確認するはずのデジカメへのバッテリーを入れ忘れてしまった。次に、この日に同行するはずだったサルワント氏が同行できなかった。当日出発が30分遅れただけだったのにもかかわらず、同氏の宿泊所近くまで迎えに行ったのだが電話連絡が取れず、我々はそのまま出かけざるを得なかった。電話しても呼び出し音も鳴らなかったのだ。彼はその時ケータイを自室に置いたまま外の洗い場で洗濯していたとのことだった。 参詣の数日後に事故の話をしていたとき、同氏から「僕の宗教ではグヌンカウィに行ってはいけないのだ。だからどうしてもいけないように神様が仕組んだのだ。というのは僕(の魂)は霊界の軍隊の将位を持った司令官で14個大隊を率いている。僕の属している軍隊はグヌンカウィの霊界の軍隊と対立状態にあるから、もし僕がのこのことグヌンカウィに行ったら、その山の霊界の軍隊が僕を攻撃してくるだろう。そうしたら僕の率いる軍隊との間で大戦争が勃発し、地上でも天災地変が起こる可能性が高かったんだ」という話を聞いた。彼は昔から霊界の軍隊についてジェット機も戦車もミサイルもあるのだと話してくれていたが、彼自身の霊が司令官だとは知らなかった。この話は筆者にとってまだ眉唾ものである。 |
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今回、同行した熊坂氏に依頼して、GPSで上と下のお堂の位置を計測してもらった。 上のお堂は東経112°29' 09.2"、南緯08°00' 11.6"であり、下のお堂は東経112°29' 31.8"、南緯08°01' 28.4"であった。次回カランカテスのパテジョノトの石像に会いに行ったときに緯度と経度、石像の向きを調べてみたい。この石像がちゃんと上の宮の方向に向いているかを調べてみたいのである。 最後に、迷惑をかけた上に写真まで寄贈いただいた同行の小林・熊坂両氏に感謝したい。 |
2006-12-11 作成
2006-12-23 追加修正
2015-03-08 修正