嗚呼、インドネシア
27話 スマランの大廟・サンポコン

 世界史で「鄭和の大航海」を習ったことがある人はたくさんいるだろうが、卒業しても覚えている人は数少ないだろう。

 インドネシアのジャワ島中部にある大都市スマラン(Semarang)は今では商業都市として、中部ジャワ州の州都として栄えているが、この町が華人の中心になっていることを知る人は少ない。また、インドネシア最大の「三保洞」と呼ばれる道教寺院があることもあまり知られていない。

 十数年前にジャカルタの大衆紙であるPos Kotaにこの三保洞についての連載記事が掲載されていたがスクラップを取り損ねて、興味を抱いたままになっていた。同記事には、同寺院に祭られているのは鄭和の副官であった王景弘(Wang Jing Hong)がイスラム教徒であったにもかかわらず、イスラム教徒のジャワ人ではなく仏教徒が大部分を占める華人がその墓所を数百年にもわたり立派に維持管理してきたという事実に驚かされるという旨記載されていたと記憶する。

 2006年12月7日に偶然にスマラン市に出張する機会を得たので、その帰路に念願の三保洞に参詣することができた。以下はその記録である。

入口近くにある銘板
緯度経度 6 59'43S, 110 23'54"E

入口付近からみた境内

鄭和の副官の墓所。天然の洞窟を改装装飾したものの入口。

地下墓所の内部。墓所内部は撮影禁止であったので、入口付近から撮影したもの。床にある円筒状いものは井戸の跡か?
 Sam Poo Kongは「三保洞」の福建語読みで、マンダリンだとSan Pao Gongと読まれるが、現地の華人の大多数が福建人であるから、現地ではSam Poo Kongと呼ばれている。

 以下は同寺院で買い求めた参考文献から翻訳・抜粋したものである。


【鄭和提督の親善大航海の意義】

 600年前の偉業を祝うに当たり、熟考する時間をとってみよう。600年前に行われた航海史上の偉大な試みを想像してみてください。それは時間の中に消えようとしており、ほとんど忘れさられ歴史のほこりの中に埋没しようとしている。国際的な世界の中で、鄭和提督の名前は、コロンブスやバスコダガマ、マゼランなど西洋のほかの探検者にくらべてほとんど聞かれない。インドネシアでもまた同様である。それは、水面に航跡を残さない船のように、わずかな数の中国人だけが知っている鄭和の大航海の歴史である。海事世界において偉大な貢献を与え、七回の大航海というこの上ない実績に対して我々の賞賛行動は微々たるものである。それゆえ、来るべき鄭和提督の上陸記念式典は、特に国際的平和友好の歴史と世界の文明史上において尊敬に値する名士として鄭和の名前を復権することが有意義なのである。

 忘れてはならない世界への鄭和の功績
 過去において、艦隊の大きさや近代的な航海用機器、時間的な隔たりのような実際の示威行動という点から、歴史学者たちは鄭和提督の大航海を西洋の他の探検者たちと比べることを基本としていた。これらの事実の羅列を基本に置くと、鄭和の実績と比べると、技術面でも、艦隊の大きさでも西洋の探検者たちを大きく上回るのである。すべてにおいていえることは、鄭和は海事史上において奇跡を作り出したことで彼に匹敵するものはいない。

 コロンブスや他の西洋の探検者に比べて、鄭和の大航海の著しくかつ基本的な相違点があることに注目する必要がある。大航海時代の西洋の探検とは領土拡大がその基本にあった。これを成功させるため、彼らは彼らが発見した新しい土地を植民地化あるいは征服した。そのために現地人の所有物を奪い取ったり、殺したり(一部族を皆殺しにしたこともあった)、新しい土地の自然の恵みを強奪したのである。それに対して、鄭和の七回の大航海のすべてにおいて新しい土地にすんでいる原住民に対し友好的な方法で文化交流を行い公平な交易を行うなど平和的な接し方をした。

 当時、明帝国は黄金期にあった。「すべては皇帝に属する」という全体主義で絶対的な力を振るった、海事史上偉大な功績を打ち立てた推進者である永楽帝は彼の帝国を世界の中心にしたいという願望があった。また永楽帝は儒教の教えに従い、「王道」の思想をとったのである。鄭和提督は、かれの八年以上にもわたる友好大航海の間、きわめて忠実にこの思想に従った。鄭和は「以徳化人=徳を持って人を変える」という思想の敬虔な信者であった。現代からみれば、それは、共に同じゴールに向かって進むためと平和な生活を楽しむため中国の文化の特徴を他国に紹介することであったと言えよう。当時非常に優れた軍隊を載せた大艦隊を鄭和がもっていたとしても、たとえ抑圧が必要でも、軍隊を弱小国を抑圧するために使おうとはしなかった。彼の友好の大航海の間に、鄭和提督とその部下たちは何回も隣国の大国の攻撃や政治支配を受けている小国を救援したのだった。係争地帯の問題解決のために友好的な雰囲気で友好的に解決しようと積極的に行動した。鄭和の徳の高さと平和的なやり方は、鄭和の大航海の後に海外移住した大多数の華僑たちの心にしっかりとどまり、実行されている。これらの華僑は世界各地、特筆すべきは東南アジアで、生活拠点を設けた。かれらは現地政府による強奪の被害者にもなった。1740年に起きた「バタビア騒乱」の後、オランダ植民主義に対して武力闘争を行ったことがあるのである。

 鄭和の友好大航海が終了したあと、中国では明王朝とその後も含めて大艦隊が編成されることはなかった。このように、彼らは海事世界の地図から消えていったのだった。いまではわずかな痕跡を残しているだけである。鄭和の艦隊が投錨してから安全地帯となったマラッカ海峡はその後ポルトガルの強奪にあった。鄭和の旗艦「宝船」とその他の艦隊の外洋船は彼の引退後には中国南部の船渠で腐るにまかされ、少しずつ消滅して行ったのである。これは仁宗帝の渡航禁令がでたことにも部分的に原因する。さらに残った船体の構造材は寺院や宮廷の建築材料として持ち去られた。それ以降「海は色を変えた」のであった。 帝国政府は、自国の安全と安泰を図るべく鎖国を命じた。しかし事実、その結果起きたことは「老朽化」と後退であった。経済の縮小により、帝国の威厳は徐々に退色していったのである。中国は世界史上において卓越し影響を与えることができる役者になる機会を失ってしまった。封建的農本主義から抜け出し、先進的な海事技術をもち、地球規模の貿易システムを作り上げ、洗練した工業技術をもつ国になるという機会は吹き飛んでしまった。それ以来、鄭和提督の母国は弱体化するとともに崩壊し、謀略を使って皇帝の威厳を地に落とそうとする西洋帝国主義諸国に安易に分裂されてしまう犠牲者となってしまった。対して、コロンブスやバスコダガマ、マゲランの探検から続いた西洋の海事技術は拡大するとともに強大化し、近代にはいることになったのだった。これらの業績は経済発展や世界の海を支配する強大な海軍の設置に見られるのである。史実から見れば、海上兵力の重要性を察知した鄭和の時代における先見の明は何の意味をも持たなかった。鄭和のもった遠洋を越える世界を探検しようとしたその意識と熱意は特に中国の海事技術の強化とともに一般的にはアジアの海事技術の強化の精神となりえたのである。

 鄭和の大航海という壮挙は、その後の急速な西洋の海事技術の発展に埋もれてしまった。それはどうしてだったのだろう。

 鄭和提督と部下たちのこの業績は大きなスケールで見ると記録破りの成功であったが、明帝国政府の無情な政策で鄭和の大航海に関する重要な記録や記事は破壊あるいは抹消されてしまった。これは封建体制の保守性と国外からの外圧によるものであった。
1.

 当時、海外進出と友好就航は皇帝がその代表であり、宮廷内の数人の高級官僚のみに許された特権であった。中国の大衆はその重要性を理解していなかった。鄭和の時代の後にスペインとポルトガルの航海家は同国の政府から多量の援助を得た。彼らの意図は発見した新天地を自国の領土とするものであり、それと同時に母国を豊かにするための産品の探索であった。初期の彼らの目的は新天地を発見して植民地化することであり、そのため航海に必要な船舶と航海技術を得るために継続的な政府あるいは民間からの援助を必要としていた。航海家たちの努力は無にはならなかった。なぜなら彼らは新天地を発見したからだった。さらにはその新天地は、暦上において中世から近代へ移行する重要な梃子となったのである。爾来、英国、オランダ、フランスが続き、数百年間は新天地を発見し選挙するための地域間競争が行われたのだった。
 一方、鄭和による中国の発展は中国の農業経済が最高点に至った時に実施されたものだった。この繁栄は15世紀当時、人口が5000万人いた中国の自給自足を可能にしたとともに、海外発展の必要性を否定することとなった。
 それゆえ、帝国政府は自給自足で事足りる故、海外貿易は不要であると考えていた。海外諸国との関係樹立による開放的政策の実行を支持する声はほとんどなかったのである。中国にとって他国との交流は不必要であり、海外進出は資源と費用を浪費するだけで無駄であるという考え方に固執していた。当初、海外への発展は皇帝自らがその指揮をとることになっていたが、皇帝のまわりにいる帝国政府の高級官僚たちはこの政策に強く反対したのだった。そして皇帝といえども高級官僚たちの協力と指示がなければ海外発展の指揮をとることができなくなってしまった。それゆえ、今になっても明帝国時代の鄭和の壮挙は種々の議論の対象となっているのである。
 多額の費用と資材を要するこれらの壮挙は中国人たちにとって具体的に有益な結果をもたらしたわけではなかった。分かったことは他国からの使節が皇帝への謁見のため数々の朝貢の品を携えて明を訪れたことだけだった。現地の王が購ったこれらの朝貢の品は鄭和が提供した品々とは経済的に全く引き合わなかったのだ。高級官僚たちはこれらの行為による損失を斟酌し、費用が収入を大幅にうわまわると考えたのだった。
 このような大規模で好意的な事業は嘲笑や否認ではなく国家的な資金の提供と援助がなければその有効な結果をもたらすことはない。それが鄭和が行ったアフリカ東海岸にまで達することができた遠征であり、その名声は短い生命でありすぐに忘れ去られてしまったがコロンブスの前に鄭和がアフリカを発見したという主張だ。
2.
 長い間、世界においては平和的手段のかわりに暴力と武器で問題を解決するのが常套手段であった。
平和のメッセージを他国に伝えた鄭和の努力は消え去り、鄭和の後には銃声と砲声に打ち消されてしまったのである。28年以上にわたり、鄭和は大国からの平和通商使節であり、常に友好と協調の理念を訪問した他国の人々に与えてきた。この洗練された礼儀正しい態度で、鄭和とその部下たちはつねに心を開き他国の人々と接しようとし、皇帝からの贈り物を届け、かれらの問題を解決するために援助を行ったりしたのだった。不幸にして、彼の時代の後に「大航海時代」とともに植民地争奪戦が始まった。新天地を発見し占有するために、コロンブスやバスコダガマ、マジェランを筆頭として欧州の航海家たちは残忍な行動を常にとったのである。彼らが至ったいかなる土地においても必ず血が溢れ出ていた。彼らの撃った銃声は、新天地の占領と植民地化のみならず現地人を虐殺・抹殺するなどの彼らの暴挙を示すものである。発展と中世から近世への移行の歴史は、大国が小国を武力で占領するという事実であふれかえっている。占領者たちは発達した武器の使い方に先住民より習熟していたのだ。鄭和によって広がった友好的平和使節団は払拭されてしまい、そのあとを辿ることはできない。
3.  自国を他国から切り離すという中国のもっていた封建的な性向は、鄭和が実施した開放的な対話政策とは相容れないものであった・
海 禁政策の主目的は倭寇を取り締まるということであるとともに密輸を防止する点でもあった。これは封建中国が国外からの侵入を防ぐ安全柵でもあったのである。開放政策と国外からの情報流入は、社会制度の安定を失うので封建システムに不適なものと考えられていた。それゆえ、遠隔地諸国への鄭和の遠征は、海外発展に終止符をうとうとする高級官僚たちによって異議を唱えられてしまった。鄭和の死後ほどなく、すべての海外交流は中止され、遠隔諸国への大航海の記録はことごとく破壊されてしまった。中国の対外政策はここでその途を変えてしまったのである。
4.  半封建・半植民地体制の下で生活していた20世紀初頭の中国人たちは西洋帝国主義の不当な侵略に飽き飽きしていた。
 西洋から持ち込まれたいかなるものに対する憎悪の感情は、他国との友好関係を開いた鄭和の偉業とそれに対する尊敬の念を中国人から奪い去ってしまった。1840年のアヘン戦争での屈辱的な敗北のあと西洋諸国の軍事力の脅迫により中国の鎖国は強引に開かれてしまい、その後西洋の利益に傾いた条約が締結されたのであった。国土は細分化され、資源は強奪された。この混乱の時期においては鄭和の偉業を中国人たちは思い出すゆとりもなかったのだ。
5.  もう一つ特筆すべき重要なポイントがある。それは数年前に中国政府が従前の政策を改め門戸開放政策をとったことにより、歴史学がマルクスの「階級闘争理論」から解き放たれ大きく発展したことである。
 農民と支配者との階級闘争と被支配者の自己の権利獲得のための闘争について児童は学校で常に教わってきた。政府官僚が圧迫者としてあざけられている間にこれらの反対者たちは理想主義に走った。十代には帝国の残忍な法律の犠牲になったとは言えども、鄭和は皇帝の信用を得ることができた。皇帝は鄭和に大きな責任と力を与えたことが、鄭和が圧迫者の下僕であると大衆にいわせしめることになり、鄭和の偉業は尊敬するに値しないものとなった。その結果として、鄭和とその業績に関する歴史的記録は遠く、薄くなり二度と戻ってくることはなかった。いくつかの本では鄭和の大航海を、その途上で起きた魔法と神話的事が詰まった夢のような冒険物語に描いている。もちろんそのうちいくつか物語は事実を誇張している。この魔法じみた夢冒険物語は清時代のLou Mao Denの創作だった。というのはこの物語は人を納得させる証拠はなく、文芸界では価値を認められず西遊記にくらべて全く人気がなかった。
 それゆえ、鄭和とその大航海の真実の歴史はほとんどの人に知られることはなかった。インドネシアにすんでいる我々にとって、状況はやや悪化している。オルデバルーの元で生きてきたため、30年以上にわたってすべてに関して中華文化が禁止されてきた。新聞雑誌記者のうちわずか数人の勇敢なレポーターたちがあえて禁令を破って僅かずつ三宝と鄭和、さらには鄭和を記念した同名の寺院に関する記事を書いただけであった。三保洞の名前が徐々に有名になったとはいえ、いまだたくさんの人たちは鄭和の一生と業績についてはしらないままである。

 いま世界は鄭和の精神を必要としている。

 過去数十年間、外交と国際関係における倫理は何回かの大きな変換を遂げた。我々は鄭和の精神を奉じて、世界の幸福のために鄭和が行ったことから学ばなければならない。

 急激な世界人口の増加は我々から生存空間を狭め人口過剰を招いた。環境汚染は地球を脆いものにしている。特に大国の進んだ軍事技術は大量破壊という形で我々の世界を脅している。世界経済の地球化と急速な情報技術の発達は国境をなきものとし、それを無効化している。今現在我々が必要としているのは上記の要素の結果としての国際社会の新しい調和の精神である。調和の取れた協力による深い信用と平和協調を創造する開かれた対話は国際関係の管理手法なのであること、すなわち弱肉強食という前提を一旦横に置くことである。鄭和のすべての大航海には鄭和は常に平和的方法で対処し、友好を提示し、仁義礼智信という儒教の五大原則に則って開かれた対話を行ってきた。われわれは仁義礼智信の精神を尊重し、我々すべの人生のモデルとする必要がある。

 2001年初めのインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙の記事には、外交と商業の精神について、鄭和の大航海は、鄭和の時代の100年後におこなわれた植民地獲得を目的としたコロンブスや他の欧州探検家とは鋭い対照をなしている。この西洋の記者による鄭和への評定は勇気付けるものだった。現代の世界が必要としているのは、コロンブスではなく鄭和のような志士である。東南アジア諸国、特に中国はここ数十年にわたり開放政策を実施し経済の急発展を経験し、世界の関係構築に関して彼らの経験から学習した。鄭和の歴史からの学修はかれの母国を一歩ずつ前進させ世界への広がりを見せた。しかし彼の歴史は不意に消滅しその跡をとどめていない。我々は鄭和の輝かしい偉業と良好な関係を構築した努力、さらには世界を一つの調和したシステムにしたことについてわすれてはならないのである。

 さらに特筆すべき鄭和の道徳的な点は、交易相手から利益をむさぼろうとしなかったことだ。事実、鄭和は物質的なものよりも道徳的で倫理的なものを尊重していた。彼が仕事中、自分の利益より交易相手の満足を望んでいた。もしこの倫理が国際商業関係にあてはめることができたなら、それはさらに健康的な慣例へと導く「真に文明化した世界」という文化を創造することになろう。仁義礼智信の五大原則は鄭和によって十分に国際化し、交易にせよ外交関係樹立にせよ、彼のすべての業績のなかに如実に示されている。

 我々は衷心から、鄭和来航600年特別記念祭において、我々にとって他国との良好な関係を創造するための世界の向上のため、鄭和の高邁な精神とその実現を再度奉じことが可能である。

【鄭和の一生】
 三保洞と世界的に知られている三保大人(福建読みでSamPo Tay Jin)は華僑の間でもっとも信仰されており、中国国内を除くと鄭和を祭る本寺院は世界的に威容を誇っている寺院の一つであるとともにインドネシアでは参詣の中心となっている寺院である。鄭和を祭る同様な寺院は他にはマラッカとアユタヤに存在するが、本寺院の規模に追いつくものはない。三保洞は大航海時代における中国の顕著な発展を示す指標でもある。
 三保大人、鄭和は現在の雲南省昆明市南部の昆陽で生を受け、本名はMa He、宦官にされてからはSan Baoと呼ばれていた。鄭和の先祖は中国西部、西域地方の出身で、数世代の間にイスラムの信仰を持つにいたり、13世紀末頃、鄭和の先祖は雲南省に移住した。鄭和の祖父母はメッカ巡礼を行いハッジの称号を得ていた。鄭和には六人の兄弟があり鄭和は三人目であった。子供の頃から祖父や父からメッカ巡礼のたびの話を聞かされ、鄭和は遠い異国の風習に深い興味を抱いたとともに心にその印象を刻み込んだのだった。そしていつの日か大海原を越えて遠い国々を訪れたいものだと思っていた。
 西暦1381年、蒙古が占領していた雲南から派遣された蒙古軍との戦いのために明の初代皇帝朱元章は雲南地方に騎兵隊を派遣した。この戦いでMan He(鄭和)は明の捕虜となり首都の南京に連行された。Man Heは去勢され宦官として宮廷に使えることになり、しばらくして三保大人と呼ばれる有名人になったのだった。去勢された宦官はTajian(太監)と中国語では呼ばれていた。鄭和は宮廷では王の第四王子の深い信頼を得てもっとも親密なアドバイザーとなり、同王子が北京で高位に着いたときには鄭和も同行したのであった。

 朱元章皇帝の死後、この王子と、当時王位継承が認められていたそのいとことの間で王位継承戦争が勃発した。この間、鄭和は自分の持つ特異な軍事的戦略能力と騎馬隊長の能力を証明することになった。Zhengchunbaの戦いでは信じられないほどの鋭敏さと勇気で、圧倒的な軍勢の差を持つ李景隆将軍率いる朱允文軍を打ち破った。続いて他の戦いにも勝利し、ついには南京を奪還し、仕える王子を明成祖皇帝に押し上げることができた。同皇帝は永楽帝と名乗ることになりその後はその名前で世界中に知れ渡ることとなった。皇帝はMan Heの非凡な才能を高く評価し、宮廷内の召使の最高位である宦官長に任命することとなった。さらにはZhengchunbaの戦いにちなんで「鄭」の苗字を賜り、それ以降Man Heは鄭和と呼ばれるようになった。明成祖皇帝は歴史上では暴君と呼ばれているが、同皇帝は中国歴史上もっとも有能な皇帝の一人であった。同皇帝の治世にはタイやジャワ、マラッカ、カリカットなどの遠方諸国と親交を深めたのみならずアジアやインド、アフリカ、中近東との交易を進め、中華文化の拡大を図るべくたびたび使節団を送った。中華帝国の威力の誇示のために皇帝は大型の友好使節団を遠方諸国に派遣することを決め、鄭和にその大規模な友好使節団の全権を託したのであった。これで鄭和が子供の頃から抱いていた遠い国々への夢が実現したのであった。

 1405年7月と11月に、鄭和は蘇州の劉家港から62隻の大型船舶から構成される第一次の大型使節団団長として西に向けて出帆した。これは中国史上最大の出来事であった。この第一次使節団はその途上、チャンパ(カンボジア)とジャワ、パレンバン、その他のスマトラ地方、さらにはスリランカとその周辺地域を訪問した。このときの最終目的地はインド西海岸にあるカリカットで、鄭和の上陸碑を同地に残している。

 この周航には二年を要した。南京に帰還後、鄭和は休むまもなく二次使節団派遣準備に追われることになった。第二次使節団の残した重要な考古学的遺構はスリランカにある小さな石碑である。その石碑は1911年に発見され現在ではコロンボ博物館に収納されている(下の枠内参照)。この石碑には鄭和がスリランカの仏教寺院を訪れことが記載されている。鄭和のおかれた環境と今回の渡航の目的、さらにはスリランカ国と仏教への尊敬の念がそれから見て取れる。この石碑には中国語とタミル・ドラビダ語、ペルシャ語が刻まれている。


Tri Lingual Inspcription by Cheng Ho (鄭和Galle三か国語石碑) 撮影筆者
コロンボの博物館に収納されている鄭和の石碑。磨滅していて現物からは読み取れなかった。2013-09-29撮影。
説明書は以下のように述べている。
この石碑は1911年に技師H.F. Tormalinがゴール(Galle)町で発見したのもの。同石碑は中国語、ペルシャ語、タミル語の三種類の言語で書かれており、中国で作成されたものである。波斯でイスラムが受け入れられた影響から、ペルシャ語の部分はアラビア文字を用いている。同石碑には1403年の年号があり、これは永楽帝治世10年(度欲註:永楽の元号は1403年が元年であるから「10年」は間違い)である。この石碑は鄭和(1371-1435)によりゴールに建てられたといわれている。
この奉納石碑はヒンドゥー教の神の祝福と、ヴィシュヌ神に対する礼拝のためにスリランカにもたらされた数々の儀式の記録であることを我々に喚起させる。Arya Cakravarti(度欲註:スリランカのジャフナ王)はペルシャ語に堪能であったとイブン・バトゥータは記録している。ペルシャ語と中国語と併記されているタミル語の使用は、タミル人による外部世界との平和的で継続した商業取引があったことを指し示している。それと同時に、碑文の内容はこの三カ国に文化的かつ言語的な連携があったことを述べている。
(枠内2014-01-23追記)

  鄭和はさらに遠くまで使節団を送る意思を持ち、第四次使節団はホルムズ海峡とペルシャ湾にまでいたった。同地で使節団の艦隊を各地に分割派遣し、より広い範をカバーしようとした。第五次使節団は1471年に始まり、鄭和はアデンに達することに成功し、ついでアフリカ東海岸に沿ってモガディシュやブラワ(現在のソマリア)、マリンディ(現在のケニア)と南半球諸国に至った。その帰路、鄭和はマリンディから南西インドのクイロンを経るインド洋横断航海に成功したのだった。

 鄭和最後の使節団派遣は1431年から1433年にかけて行われ、艦隊がカリカットに達したとき艦隊を分割し、鄭和はカリカットに残ったがそのうち一つの分遣隊はメッカにまで到達した。これらの分遣隊をまとめたあと鄭和は帰国した。

 鄭和は28年にわたる間に七回の航海に出かけ、インド洋西岸諸国との間の海運貿易ルートを創設したのだった。鄭和は平和大使として、どこの国に上陸しても同地の王や支配者に臣従の礼を尽くすとともに、風習や生活習慣を学ぶために諸国の人たちと交流を重ねた。鄭和は文化交流と交易を行うため、諸国と中国の間で親密な外交関係を樹立させようとした。その後、これらの遠方諸国からも多数の使節団が皇帝の好意と庇護を求めるために北京を訪れ朝貢することとなった。毎回の帰港の際には、朝貢のために遠方諸国からの使節団が鄭和の艦隊に便乗した。第六次使節団の時には16カ国から1200人の使節団が鄭和の艦隊に乗船したほどであった。この親密な関係は中国とアジア、アフリカ諸国との間の理解を強めるのに一役買ったのである。

 同艦隊には、訪問地の王や支配者に進呈するための絹織物や陶器、金銀など大量の中国工芸品を積み込んでいた。現在までも当時の交易の事実を証明する中国陶器の破片などが鄭和が訪問した各地で発見される。ケニアとタンザニアでは墓石の装飾に使われた中国陶器の皿を見ることができる上に、15世紀に建造された城砦も現存する。その一方、これらの国々で産する、香料や染料の材料、真珠、珍獣などの貴重な産品や資源なども、皇帝に献上するために鄭和の艦隊は中国に持ち帰ったのだった。

 鄭和の南海とインド洋航海は、明より少し前に確立した荒波にも耐えうる外洋船の造船技術という中国の進んだ技術とそれに伴う遠洋航海術の発達が寄与している。この歴史的航海のために建造された船は全長120m、全幅40mで9本マストを備えたものであった。当時この寸法の船舶は巨大ともいえるものであった。一隻には約1200人の操船員が乗り組み、操舵員と投錨員、帆の操作員は300名以上にも達した。現代的な技術が当時はなく、風による帆走のみがその推進力であり、このような航海には強い意志と勇敢さがもとめられた。航海位置測定のためには羅針盤に頼るのみならず、昼間は太陽の角度、夜は星を見上げていた。度重なる航海の末に、彼らは中国海運史上最初の海図を作成したのだった。鄭和の乗船した船には知識人であるMa HuanやFei Xin、Kong Zhenなどが乗り組んでいて、彼らが各地で行った観察の結果はYing Ya Sheng Lan (海の向こうの美しい風景)、Xing Cha Sheng Lan (星察勝覧)、Xi Yang Fan Guo Ji (西洋藩国記)としてまとめられた。これらの書物は彼らの七回にわたる航海で立ち寄った各地の経済状態や現地の習慣、文化を含めた現地人の生活風習などを伝えている。これらの歴史的資料は特に鄭和の航海を研究する歴史学者や次世代の人たちにとっては重要かつ貴重なものである。

 鄭和は65歳でその命を閉じ、南京郊外の牛首山の墓所に葬られた。一部にはカリカットからの帰港途中に鄭和は死に水葬されたという説を唱える向きもあるゆえ牛首山にある鄭和の墓所には遺体ではなく衣類だけが埋葬されているという可能性もある。不幸にして鄭和の死後明成祖皇帝の継承者は永楽帝ほどに海外進出に対してビジョンを抱いていなかった。保守派の長老であるLiu Da Xiaは一貫して強力に海外遠征に反対し、中華帝国の組織を支配したのだった。そして鄭和の遠征に関する資料を破壊するように官吏に命令したとともに使用された大型船舶は次々に破壊された。それ以降、中国史上における鄭和の偉業は徐々に記憶から薄れついには忘却のかなたに去っていったのだった。中国の状況が変わった最近になってからのみ、数百年前から認められるべきであった鄭和の偉業が正当な評価を得て、鄭和の遠征の580年を記念して歴史上初めて1985年7月11日に大艦隊のパレードを含んだ中国で大きな記念祝典が行われた。3000人を超える学者や作家、海外招待客がそのセミナーや科学的会合に参加し、鄭和記念博物館において鄭和の大航海に関して議論と検討が行われた。 鄭和記念博物館は美しい庭園に囲まれ、その正面には宦官長の盛装をした鄭和の石像が立っている。さらには鄭和の大航海の600年記念として2005年には当時の船舶のレプリカが同一縮尺で作られ、進水し、福建から台湾、上海を回航することになっている。

 中国では鄭和は神として祭られておらず、廟も存在しない。一方、東南アジアの特にスマラン市では、鄭和は多数の人たちから崇拝の対象になっている。ジャワへの到来の記念日のお祝いは旧暦六月の29日に毎年行われており、その日には、ジャワ島はもとより他の各国からの多数の参詣者でスマランの三保洞は満たされるのである。

【三保洞寺院縁起】
 インドネシア人には一般的、特にスマラン市住民にとっては特別に、1416年に中部ジャワ州スマランに到着した鄭和に関する物語は有名であり、かつまた今でもの鄭和の偉業は議論の対象となっているる。明の永楽帝は大艦隊の指揮をとるべく特別な使命を鄭和に与え、鄭和はその第一次大航海を1405年に劉家港から始めたのだった。鄭和の七回の大航海のうち、鄭和は1406年と1416年に二回ジャワを訪れた。1416年当時、シモガン地区は海岸近くに位置しており、鄭和は船体の修理のためにこの近くに投錨したようである。それゆえか、この地域はMangkang と呼ばれており、これは福建語で「巨船」を意味するwakang(大船)にちなむものらしい。

 いくつかの記述によれば、鄭和の大艦隊がジャワ島北海岸沿いに航行していた時に鄭和の副官であった王景弘(Wang Jing Hong)が重病にかかったため、鄭和はスマランのシモガン海岸に投錨するよう部下に命令した。上陸後、鄭和とその部下たちは海岸に面した丘のふもとに自然の洞窟を見つけ、そこを仮の兵営とし、その外側に休息のための小屋を建てた。王景弘はその地で静養をしているあいだ、鄭和は西に航海を続けた。王景弘が静養している間、王景弘とその部下たちは耕作し家を立て、現地人と親交を行った。王景弘の病気が快癒するまでの間に王景弘とその部下たちはこの地が気に入り、ついには鄭和とともに帰国することはなかった。部下たちは現地人女性と結婚した。かれらの努力のおかげで洞窟近くの地域が開発され、富にあふれ、交易で賑わったとともに農地となった。ついには次から次へと華人の子孫や移住者が移動してきて、商人や農民となった。

 鄭和への貢物として、王景弘は鄭和の石像をその洞窟内に安置し記念とした。王景弘が87歳でその生涯を閉じたとき、遺骸はその地に埋葬された。王景弘はその名前より、現地ではKiai Juru Mudi Dampo Awang (Dampo Awang the Helmsman)としてよく知られている。本殿に隣接するこのHelmsmanの墓所は改装・拡張されている。旧暦の毎月1日と15日には多数の人が集まり鄭和の石像の前で感謝の祈りを捧げるとともにDampo Awangの墓所に参詣している。

 三保洞寺院は、San Baoと呼ばれていた鄭和に捧げるために建立されたものである。その初期、鄭和の石像と洞窟、寺院建造物はきわめて簡単なものであったが、1704年の豪雨による地すべりで洞窟が崩落した際に、現地人がDampo Awangの墓所のある洞窟に隣接した箇所を掘削し人口の洞窟を作った。この年が三保洞寺院の記念すべき最初の改装であった。鄭和の上陸を記念して毎年旧暦6月29日は大掛かりな記念式典が三保洞寺院で開催される。この式典にはパレードと行列が出るのが伝統的となっている。

 1740年にバタビアでオランダ兵士が華人を大量虐殺した「バタビアの狂乱」と呼ばれる大騒乱が発生し、生き残った華人たちは中部ジャワに逃れ反撃の機会をうかがっていたのに対抗してオランダ植民地政府はカルタスラの支配者スナンと援助協定を結んだ。反オランダ武闘派のリーダーは、シモガン地区の武術のマスターであったSouw Pan Djiang 蒋班昌であった。残念ながら反オランダ武闘派は少数であり、最終的にはオランダ軍に敗北を帰した。蒋班昌はオランダ軍の待ち伏せ攻撃をうけ、断崖の上に追い詰められた後にシモガン川に飛び込まされ、その後の行方はわかっていない。蒋班昌の勇気をたたえるため、現地人は蒋班昌が消えうせた地域をPangjangan (Panjang = Pan Djiang)と呼ぶようになったのである。それ以降大暴動が発生するのを防止するために植民地政府は華人をGedung Batu (石の建物)地区に移住させ、その地域はいまではPecianあるいはChinatownと呼ばれている。華人居住区をオランダ軍兵営に隣接させたのは監視の目を行き届かせるいみであった。

19世紀中ごろ、シモガン地区はユダヤ人Jahanesが所有するGedung Batuと同様に有名になっていた。Johanesは自分の所有地からの収入を増やすために、三保洞寺院に参詣する華人たちから通行料を徴収していた。この通行料がかなり高額であり庶民には負担しきれなかったので、華人たちは年間2000グルデンをまとめて納入することで通行料を免除させた。しかしながらこの額が極めて高かったため、そのご年間500グルデンにまで減額となった。この額でも現地人にとってはきわめて重い負担であった。それゆえ三保洞寺院に参詣する華人たちを絶やさないように、三保洞寺院のコピーを「大覚寺」として1771年にLombok横丁に建立した。その後、華人たちは三保洞寺院から大覚寺に参詣するようになり、毎年旧暦6月29日あるいは30日に大覚寺からGedung Batuの三保洞寺院まで鄭和の人形を立てパレードが行われるようになった。それ以降このパレードはメインイベントとなり毎年欠かさず行われている。植民地時代にはこのパレードは大覚寺からJohanesが立てたゲートまでしか許可されなかったのである。

当時、貿易商であったOei Tjie Sing黄志信は、商売が成功した暁にはその聖域を買い取るという誓いを立て、1879年にその願いは実現された。黄志信はさっそくその聖域を買収し、三保洞寺院を再建した。この一件は1879年に立てられた石碑に刻まれている。同年スマラン住民は黄志信の恩に報いるため大規模な感謝祭を三保洞寺院で開催した。1930年にはLi Hoo Sum李和順が寺院の管理責任者として土地所有者の黄志信から任命され昔日の祭事を守っている。しかしながらその数年間、華人たちは徐々に三保洞寺院への配慮に欠けてきたため、友人たちと供に李和順は初志を守るために三保洞寺院委員会を設置した。そのおかげもあり、昔日のパレードが息を吹き返すことができた。黄志信が1924年に没した後その遺産相続人に対し、三保洞寺院と周辺の土地を維持監理のために設立した三保洞財団に委譲するよう李和順は依頼した。遺産相続人はそれに同意しこれが三保洞財団の正式な活動の第一歩となったのである。

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2006-12-11 作成
2014-01-23 追記
2014-07-22 修正
2015-03-06 修正
2015-04-01 本の写真追加
2016-08-22 修正 

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