インドネシア不思議発見 |
第40話 ジャカルタ特別市日本人村 |
いやはや、とんでもない日本人がいるものである。「郷に入らば郷に従え」という諺は学校で習っただけで、実用には供さないと決めこんでいる連中である。そもそも諺というものは実生活から生み出された智恵であるはず。ということは、アタマを含めた自分の肉体の健康・安全管理を最低の努力で最高の効果が得られる方法を試行錯誤の後に見つけ出しそれを抽象化して格言にしたと考えられる。
卑近な例にはこんなものが挙げられる。 |
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この手の人たちに共通して言えることは、「客観的」ということだけに重きを置いて、ヒトが「自然の落とし子」であることをすっかり忘れ、自分の頭の中の世界だけで生きている人が実に多いのである。「おいおい、アンタは現実のインドネシアにいるンだよ。バーチャル世界にいるんじゃないよ」と言っても全く理解できない人である。口の悪い友人はこの手の御夫人達を「毛が三本足りないクバヨランのニョニャ達」と呼んでいた。筆者はこのような人たちをアタマ人間と呼ぶ。 自分の培ってきた価値観がインドネシアという外界の圧力、あるいは一般的に「自然の猛威」と言い換えてもよいかもしれない、に押しつぶされることをアタマ人間は恐れているのである。こんなことで潰されるような価値観は「あってなきがごとし」である。こんな価値観ならもっていない方がよっぽどマトモである。自分に自信がないからこそ「客観的」という訳のわからないことを言い出すのである。アタマ人間たちの言う「客観的」理屈は自分の頭の中だけで考えたことで、外界の状況を踏まえていないことが多い。この「客観的理屈」は「主観的」なものに他ならない。 多数の経済・社会学者、エコノミストたちが言っているように、戦後日本人は異常な経済成長を遂げ、その大多数の清潔志向は程度をわきまえないようになってしまった。実例がペリエ水である。ヨーロッパでは人口的加工をしてない天然水をミネラル水としている。この水に僅かなバクテリアが発見されたからと日本で大騒ぎになった。ペリエ水の責任者は「ペリエ水にわずかなバクテリアがはいっていたのは天然水だからだ。アンタの口の中にいるバクテリアの方が何億倍も多いよ」と答えたそうだ。この苦情もアタマ人間ならではの発想である。 また、これらの学者が指摘しているのは、アタマ人間は、偏差値が高ければよいという教育でたたき上げられてきたばかりで、外界をみようとしないし、自分の主観が社会の常識からどの程度ずれているのかも見ようとしない人たちであるということである。1996年のオウム真理教事件、最近では大蔵省や厚生省の高官たちが1997年から1998年に引き起こした事件をみれば一目瞭然である。さらに、レールを敷かれた上を早く走るのには適しているが、ラフロードやオフロードにはお手上げのスポーツカーのような人間なのである。 これからは経済・環境・政治のどれをとっても疾風怒濤の時代といっても過言ではない。スポーツカーではオフロードは走れないが、アタマ人間たちは走れると信じている。こんなアタマ人間はもう暫くしたら消滅する。 人間は「自然の落とし子」であることを忘れてはならない。インドネシア人たちは宗教上の教えからも日々の生活からでも自分が「自然の落とし子」であることを良くわきまえている。あるがままを受け入れて、自分が生きるための最大の努力をすることを知っている。 それを忘れている日本のアタマ人間たちが早く死に絶えることこそが地球を守ろうとするエコロジー運動にもっとも貢献するのではないのではないかと思う今日このごろである。 どうあがいても死ぬ時には死ぬのだ。死にたくないと思っているのはヒトの脳だけである。でも脳は人間のからだの一部であるから、脳は自分が死ぬことを知っている。これを隠し通そうとしているがアタマ人間ではなかろうか。特に危機に陥るとアタマ人間は何が外界(自然)で、何が自分の脳で考えたことなのかが分からなくなってきて普通では考えられないことをやるようになる。 太古の昔から、ヒトには危機が何度も訪れてきた。それを乗り切って我々の先祖たちは生き延びてきた。生き延びるための一つの方便として宗教に頼ってきたのではないかと考える。「生き延びる」という点に関して、最近のエコロジー運動と宗教の復活が結びついてはいやしないだろうか。 |
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【参考文献】 「成り上がりの時代」落合信彦著 ザ・マサダ刊 「筑紫哲也の『乱世を生きよ!(大変な時代を生きるヒント)』」筑紫哲也 日本経済新聞社刊 「唯脳論」養老孟司著 講談社刊 |
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1998-02-22 作成 ジャカルタにて
1999-07-24 更新 バトゥテギにて
2002-07-30 更新 読みやすく改訂
2015-03-05 修正