インドネシア不思議発見
34話 社会的なお付き合い

 インドネシア人と一緒に仕事をしたり暮らしてみると、彼らの間のお付き合いの方法に日本人とはずいぶんと違う点があるのに気づきます。たとえば、
  1. 「挨拶すること」。田舎から出てきたばかりの恥ずかしがりやの若い人たちでもしっかり挨拶をします。筆者の息子が通っていたインドネシアの田舎の小学校一年生の同級生が訪ねてきた時にもかれらはわれわれ両親にちゃんと挨拶をしていました。
  2. 「招待に応ずること」。われわれ日本人にとって一般社会に知らせなくてもよいような家族の記念日にもインドネシア人はパーティーを開いてたくさんの人を招きます。たとえあまり豊かではない家庭でも分不相応とも思われる食事を出したりします。これらの招待状をもらったインドネシア人達は、それを楽しみにして、その日に来ていく服や贈り物を何にしようかと考えながら楽しんでいる風にみえます。このようなご招待が一年に数回ならばわれわれ日本人もそう考えるでしょうが、一ヶ月に数回となるとうんざりしてきます。この違いはなぜなのでしょうか。もちろん、娯楽の不足という理由も挙げられますが、娯楽が十分あるお金持ちでもこのような気質を持っていることから、娯楽の不足という一言で片付けるわけにはいかなくなってきました。
  3. 「求められた時、助言すること」。自分の仕事もまだ十分にできないのに、会社で同僚が困っているのを見て数人が頭を寄せ合ってあーだこーだと一時間近くも言っているのをよく見かけると思います。こういう場合のアドバイスは、実際にはほとんど役に立たないことが多いことを彼らは何度かの経験から知っているのですが、それでも懲りずにあーだこーだと時間ばかり費やしています。でも解決策を熟知している日本人にはほとんど尋ねてきません。こんなインドネシア人を見て腹を立てるのは筆者ばかりではないでしょう。
  4. 「相手がくしゃみをしたら、その人のために神に救いを求めてやること」。「はっくしょん」とくしゃみをするとそれに合いの手を入れるように周りの人たちがアシュタグフイロロラジームと言います。これは特に田舎から出てきたばかりの信心深い人たちに時々見られます。日本でも昔はくしゃみをすると「休息万病(くそくまんみょう)」と言ったことが『徒然草』の第四十七段に出てくるそうですが、今では聞かれなくなっています。
  5. 「相手が病気になれば、見舞ってやること」。ひとたび病気になると、日本では考えられないくらいのたくさんの見舞い客が訪れます。見舞い客があればそれだけ病人が気遣いして疲れると思うのに、これでもかこれでもかと物見遊山風とも受けとれるように沢山の友人や親戚が訪ねてきます。訪問客の方は見舞いに来たのですから当然のことで病人とは顔を合わせます。それだけで終わるかと思うと大間違い。見舞い客同士のおしゃべりの花が咲いて病室や廊下のあちこちでワーワーキャーキャーやっています。看病している家族も、早く帰ればいいのにとは思わず、それを当然のこととして見ています。家で闘病生活している患者にも沢山の見舞い客が訪れ、応接間はもとより前庭まではみ出して接待の茶菓を楽しんでいることもあります。
  6. 「死んだら葬式に参列してやること」。筆者が働いていたいくつかの官庁の事務所では、現職の職員やOBが亡くなると、館内一斉放送で「どこそこ部所属のだれそれがいつ何時に亡くなりました。葬式と埋葬は何時からどこそこ墓地で」と親切すぎると思われるほど何度も放送をします。この放送があると、葬式の時刻の少し前には職員の半分以上は事務所から消えてしまい、後で聞いてみるとお葬式から埋葬まで参列していたとのことでした。政府の職員は仕事に必要な人数の二倍以上いますから死ぬ人たちもかなりの数に上ります。この人たちのお葬式にいちいち参列していたら仕事は上がったっきりになるはずです。
という6点です。

  種明かしをしましょう。この六つの慣習は、ムハンマドの言行録でありイスらムの新約聖書ともよばれる「ハディース」にあるムスりムの間の六つの義務なのです。日本人の目には迷惑とも映るこれらの行為はすべてやらなくてはならないことなのです。これらに自分なりに理由を付けてみるとこんな結果になりました。
  1. 挨拶をはっきりするのは、自分が誰であるかを明確にして、相手に危害を与える意志はないことを伝えるためではないかと思います。これは、昔のジャワ・バリの農耕社会では人間の社会移動が少ないためあまり必要ではなかったはずの行為の一つですが、アラブのような移動を伴う放牧、隊商などのような職業が多かった地域では自分と相手の安全を守るためには大切な慣習ではなかったかと考えます。インドネシアでは小学校でもちゃんと挨拶ができるように厳しく教育していることもありますが、子どものしつけかたが日本の親と違うのではないか、われわれのしつけかたは間違えているのではないと女房と一緒に悩んだことがありました。が、学校を出て社会に入った時の日本人とインドネシア人の態度から感じる「親のしつけ」という面から見ると、思ったほど日本的なしつけ方が劣るという結論には達しませんでした。
  2. 招待に応じることは、招待者が主催者に殺されても良いと思うくらい信用している、あるいはそのふりをしている、ことの表れです。現在のアラブに限らず、中国でもインドネシアでも食べ物は大盛りにしておいて客が勝手にとって食べるようなシステムを取っています。昔の日本では一般に一人前盛りの箱善で、殺そうとする人の食物だけに毒を盛ることが容易でしたが、大盛りにしてみんなで分けて食べるシステムでは、予想外の被害者が多数に上ることと、毒殺を企てた張本人や仲間が毒にあたる危険性が高いのでこのような、大きな盛り付けという毒殺予防システムを作り上げたのだろうと思います。ちなみに毒殺が有名な中国では、毒が入っていないことを証明するためにその家の主人が食べ物を最初に食べることになっているとともに、お隣りの韓国では毒を検出することができる銀のさじを使っているのだと聞いたことがあります。 1996年までバンテンにいた時に、休みの日は朝から晩まで日本ではなかなかできない日曜大工に精を出して、普通の日よりも一生懸命に働いていました。筆者を勝手に養子にしてしまった「ジャカルタのお母さん」に電話で叱られました。お母さんいわく、日曜日は必ずゆっくりしていてお互いの家を訪問しあったりするのがインドネシアでの正しい日曜日の過ごし方なのだ、と。それまでは、日曜日はたっぷり自由時間があるので、自分の好きなことをやりたいだけやればよいのだと思っていました。人間関係を重んじるジャワ人だからそう考えているのだろうと思っていましたが、ここで改めてイスらムの教えだったのだと気が付いて、敬虔なムスりムであるジャカルタの両親には親不孝をしてしまったなあと、反省しています。
  3. 助言することは、一般的に言えば善行です。これは対人関係を滑らかにするためには大変役に立ちますが、大きな組織の中で時間に縛られて動いている場合には障害になることが往々にしてあります。助言している当人たちは善行をしているのですから良い気分ですが、横で見ている日本人は「早く終わらないかなぁ、彼らにはあれもこれも仕事が残っているのに」とヤキモキします。アラブの人たちは一般的に言って、今でも「こちらはこちら、そちらはそちら」と峻別する傾向にありますから、ムスりムの間の団結を強めるためには人間関係を滑らかにすることが大事なことだったのでしょう。一方、ジャワ人は常日頃、日本人の目から見ると過剰なほど社会的上下関係などの人間関係に気を配っており、生活にもプライベートな部分が少なく「他人も自分も一緒」と考えている人たちですから、助言するとなると徹底的に懇切丁寧にやっているようです。しかし、いかんせん彼らの持っている知識が少ない上に、相手を論破することを嫌いますから、大多数の場合には単なるおしゃべり会になってしまう傾向にあります。さらに、かれらは冗談が大好きですから、助言の間にケタケタ笑います。「仕事は宗教」なのだから、額に八の字を寄せて真面目にやらなければならないと信じ込んでいる日本教徒にはこれがカチンと来て、ついつい怒鳴ってしまうことがあります。怒鳴ることはジャワ社会ではマナーから外れていますから、しょっちゅう怒鳴っている日本人は「怒りんぼ」と呼ばれてインドネシア人から敬遠されます。よほど親しくない限り、かれらは日本人には助言を求めに来ないのが普通です。これは、言葉の問題や「こんなことも分からないで仕事をしていたのかぁ」と怒られるのも理由として上げられますが、裏には「日本人はムスりムではないから、助言を求めにくい」ということもあるのではないかと思います。 たとえそれがムスりムの義務であったとしても、過度に行うことは止めなさいとハディースに書いてあるそうです。マスジッドにこもって礼拝ばかりして生活費を稼がない男が一例としてあげられていて、お祈りばかりしているよりちゃんと仕事をして家族を養う方がアッらーが喜ぶと書いてあるそうです。 この「助言」に関して好ましい身近な例には、ジャカルタ在住の日本人が作成しているホームページのYorozu Indonesiaがあります。これはかれらがちゃんと働いて家族を養っている上での無償の奉仕活動の結果であり、特にその中の「電子井戸端会議」のコーナーは世界中からの沢山の有益な「助言」に満ち溢れています。これをイスらム流儀に従った「善行」といわずしてなんと言いましょうか。「助言者に神の祝福あれ!」。自画自賛であーる! (カゲの声)
  4. くしゃみをしたら、その人のために呪文を唱えてあげる風習は日本のみならず世界のあちこちにあるようです。くしゃみをすると魂が体の外に飛び出る恐れがあるからだそうです。このアラビア語の意味は「神よ、彼を救いたまえ」という意味だそうです。
  5. お見舞いは日本でもやりますが、インドネシアで知り合いのお見舞いに行った時と、日本で同じ程度の知り合いのお見舞いに行った時では、疲れ方がまるで違います。ジャカルタは大都市といっても東京に比べたら面積が小さいので移動距離もたいしたことはなく、一般に自家用車で往復するので肉体的疲労度が少ないとは言えますが、このお見舞いの後の疲労度の違いはもっと別な理由によるものだと言えると思います。その理由は見舞い客同士の談笑ではないかと思います。談笑することによってその場の雰囲気が明るくなり、深刻に悩んような、脳を無駄に使うことを避けているからではないでしょうか。これはインドネシアに独特の風習かどうかわかりませんが、インドネシア人と同じように性格が明るい南米の人たちも同じようにお見舞いの後は談笑しているのではないかと思います。
  6. 日本では特に冬場に高齢者が亡くなることが多いので、寒い中をお葬式に参列することが多いと思います。寒い中を待たされても、お焼香をしてさっと引き上げられる場合は良いのですが、お通夜から始まり座敷に上げられて延々とお坊さんのお経を聞いた上、出棺から納骨まで付き合うはめになると本当に疲れます。筆者にとってもお葬式というものにはなるべく参列したくないというのが本音です。良く見ていると葬儀屋さんはお通夜から納骨まで手際良く万事遺漏ないようになるべく早く切り上げるようにしています。

 一方、インドネシアのイスらム式のお葬式ではヒトが亡くなるとお通夜はせずにお葬式は短時間で切り上げて、さっさと埋葬してしまいます。ですから埋葬に参列するのが遅れると新しい「土饅頭」しか見当たらないことになります。また、埋葬にも、どこからこんなに沢山の人が来るのだろうと思うほど率先して参列しています。これもやはり義務だからなのでしょう。
 インドネシアでは死体が腐りやすいから早く埋葬するのだと聞いていますが、日本の法律では死後24時間が経過しないと荼毘(だび)に付したり埋葬することを禁じているとのことです。
 養老孟司氏は著書「唯脳論」のP264-265でこんな風に言っています。

 「社会すなわち脳は、たしかに死を隠すことはできる。病人は病院に隔離すればいい。死はそこで起こる特殊な出来事である。死体は直ちに焼く。骨は墓場に納める。その手続きに遺漏がなければ、万事それでよろしい。それはそれで結構である。しかし、『あるもの』を『ないもの』にすることはできない。脳は経験にないものを、『存在しない』とみなすことができる器官である。それはあんがい恐ろしいことである。社会はしばしば、あるものをないとし、多くの悲劇を生んだ。隠されるものは、いまでは貧困や残虐行為や賄賂ではない。それらはむしろ、暴かれるものである。隠されるものは、一皮剥いた死体、すなわち『異形のもの』である。しかし、それがヒトの真の姿である。なぜなら、われわれがいかに『進歩』の中に『逃走』しようと、それが「自然なるもの」の真の姿だからである。ヒトを生み出したのは、その「自然」である」。  

 このように自然をねじまげていて平気な日本人が多くなってきて、ここから脳死者からの臓器移植などという脳死問題が生じてきていると思います。「ヒトの死」という自然現象を隠蔽する「都会化」されすぎた日本人こそ、日本と社会通念・慣習の異なるインドネシアで生活する間に、かれらの立ち居振舞いを見て自分自身の中の「日本人不思議『再』発見」をする必要があるのではないでしょうか。これが日本人の地球化に役に立つのではないかと考えています。

 ちなみに、筆者は病院ではなくて自宅で息を引き取って、自分の子孫たちに「自然なるもの」を見せてやりたいと思っています。その上に、焼き場ではなくてジャワのミミズの世話になってこの世から罪とともに痕跡を消したいと思っています。でも、「インドネシア不思議発見」のような憎たらしい事をずらずらと書いてしまったので、筆者の肉体の痕跡はこの世から消えてなくなっても、このホームページを作った「悪名」はしばらく残るかもしれません。

【参考文献】
  • 「キリスト教とイスラム教−どう違うか50のQ&A」 ひろさちや著 新潮選書 新潮社刊
  • 「唯脳論」 養老孟司著 青土社刊 (青土社:〒101東京都千代田区神田神保町1-29)

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2002-07-25 修正 バトゥティギにて  
2015-03-04修正
 

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