インドネシア不思議発見
30話 体つきと民族衣装など

1. 体型と民族衣装
 ジャワとタイの女性の民族衣装は下が腰巻きで上着が長袖で、とてもよく似ています。でも、タイの民族衣装は上着が腰の所で外に跳ねていますが、ジャワのクバヤはそうではありません。顔つきも生活風習も似ている両人種なのになぜジャワの民族衣装のだけが違うのかとずっと疑問に思っていました。  
 数年前に出張の帰りにバンコクに立ち寄った時にじっくりとタイ人女性を観察する時間がありました。タイトスカ−トやピチッとしたスラックスをはいている女性達は彼女達の体型が服の上からよく分かるので、特に注意して観察した結果こんな事実が分かりました。
 へそから左右に水平に延ばした線と骨盤とのぶつかる点での骨盤の前方への突起が目だつ人がジャワ人よりタイ人の方に多いのです。従って、タイトスカ−トなどをはくとどうしても骨盤の突起が服の上から見えてしまいます。この突起が女性特有の丸い体型の美しさを崩してしまいがちです。腰巻きはピッチリと体に巻き付けますから特にこの突起が目だつようになります。これから目をそらさせるためにタイの民族衣装では上着の裾の左右を跳ねてアクセントを付けているのではないかという結論にいたりました。
 この突起は日本人や中国人のモンゴロイド系統では一般的に見られますが、インドネシアではあまり見かけません。タイまではモンゴロイドの遺伝の影響が強いのではないでしょうか。
 臨月に近くなったジャワ人のおなかは日本人の妊婦よりはるかに前に突き出しています。骨盤の幅が狭いのか浅いのかどうか分かりませんが、体型に関係することは確かです。

2. 体型と民族舞踊
 約二十年前にニュ−カレドニアの地中海クラブに一家で遊びに行ったことがあります。このクラブでは若いホストやホステスさん達(GOと呼んでいます)が世界のあちこちから来ていました。アトラクションの中で彼らのファッションショ−があり、その中には日本人や中国人、ドイツ人、フランス人とそれにジャワ人が混じっていました。彼らがステ−ジに上がってくる時の歩き方がそれぞれの民族の伝統的な舞踊の一部を抜きだしたようで、日本人の歩き方は日本舞踊風であり、ジャワ人の歩き方は伝統舞踊風でした。
 伝統的な歩き方を後天的に学習したとも言えるでしょうが、筆者には「体型に一番無理のない体の動かし方」だと感じました。振り返ってみると、空手や武道の型もその民族の体型に合っているとも言えることに気が付きました。
 民族舞踊にも体型の違いが表れていて、ジャワとバリの舞踊では関節をくにゃくにゃ曲げた体表現と二拍子以外のリズムが多いのに対して、その他の地域では主に足を使った上下動と二拍子のリズムが多いようですが、これは筆者の勘違いでしょうか。
 ジャワ人の友人が言うには「ジャワ・バリ以外の地域の踊りは『体操』に近い」です。これはジャワ人とバリ人の自慢だけではなく、強大な王朝に長くはぐくまれた高度な文化の中で洗練された踊りに、神に捧げる原始的な踊りを昇華させたと言えるとともに、ジャワ・バリ人の体型がその他の地域の人たちと違うことも言えるではないでしょうか。

3. 体型と顔
 オ−トバイの後ろにまたがって乗っている女性のお尻を車の窓から何気なくながめているうちに、ジャワ島ではお尻のかたちのきれいな人が多いのに気が付きました。「これは!」と期待しつつ、運転手をせかしてオ−トバイの前に出て顔を見ると「期待はずれ」が多いのです。「お尻の形のきれいな人は大体ブス」というこの経験がただの期待はずれだから記憶にたくさん残っているのかどうかを確かめようと注意して数えたことがありました。結果は、第一印象の通り「美尻醜顔」でした。

 東アフリカ各国で広く使われているスワヒリ語ではsurabayaという言葉が「醜い顔」を意味するそうですから、東ジャワに「美尻醜顔」タイプが多いのでしょうか。そんな訳はありませんよね。


 ジャワ島で美人が多いと言われている地域はかならず大きな王朝があった場所です。例えばバンドン、ジョクジャそれにソロです。大きな王朝のあった地域では文化程度も教養も高い人が多いことと、長年にわたって王様(サルタン)が美人をめとったから、その地域には美人が多いのかどうか分かりませんが、田舎に比べて都会には美人が多いのは事実です。
 また金持ちの家系には貧乏人よりもたくさんの美人が生まれます。ですから、お金持ちの子弟の結婚披露宴に招待されたら必ず顔を出してください。「期待はずれ」はまずあえりません。美人ウオッチングには最高の機会です。このインドネシアのどこにこんなに沢山の美人がいるのだろうかと思うほど美人の洪水で「目の保養に」なります。インドネシア料理が嫌だったらアイスクリ−ムでもなめながら観察してみてごらんなさい。
 インドネシア人がもつ「美人・美男子」の定義については別項に掲載します。

 王朝のあった地域には美人が多いことは、滅亡した中国の王朝が数千年にわたって何回も逃げ込んだベトナムがそれを証明しています。また、ジャワの旧王朝がイスらムを嫌って逃げ込んだバリはジャワよりも美人が多いことも証拠になりましょう。

 話が脱線してしまいましたが、バンドンを除き、これらの王朝は山間部ではなく広い平野部にあります。バンドンも大きな肥沃な盆地でこれらの王朝は農業を主要産業とした文明の上に立っていました。

 インドネシアの地図を頭の中で広げて、各地の民族の顔つきを思い浮かべてください。するとインドネシアでは東に行くに従い、皮膚の色が濃くなると共に髪がちぢれている人が多くなっているのが分かるでしょう。東に行けば行くほど体型もオ−ストラリアの原住民であるアボリジンやタヒチの人たちにだんだん近くなってきます。また彼らの顔つきがアフリカ人にも似ているのに気づきませんか。またマレ−半島にもOrang Asli(原住民の意)と呼ばれるアボリジンと同じような小数部族が僻地に住んでいて、文明を拒否した生活を送っているとのことです。
 筆者が想像するに、インドシナやマレ−半島、インドネシアの列島にはもともとこのアボリジンが住んでいて、中国の発展と度重なるベトナムと雲南への圧力で、ベトナムや雲南の原住民が西や南に移動し、その前にインドシナにいた人たちが少しづつ南に押されて今のインドネシアにいるのではないでしょうか。インドでも南に行くに従い肌の色が濃くなるとともにカ−ストの低い人たちの割合が増えるとのことですから、ア−リア人がカイバル峠からインド北部を通って東に進む「北回廊」から南部に侵入して現地のアボリジンと混血したと考えるとこのカ−ストの割合の違いも理由つけられます。さて、ジャワ島に民族移動した人たちは農業技術を持っていたようで、山間部よりも平地を好み平野部に住みつきました。この人達はさらに東に向かい原住民と混血してグラデ−ションのように東へ行けば行くほどアボリジンに近くなることになったのではないかと想像しています。  

 今度はジャワ島の地図を頭の中で広げてみてください。北海岸にはバンテン州のチレゴンと中部ジャワ州のジェパラ付近を除き山が海岸に迫っていません。一方、ジョクジャ付近を除き、島の南半分は山で占められているでしょう。狩猟採集民族には山間部の方がが住み易いのと、平野の民が入りにくいために「落人部落」のように民族移動の相当後までアボリジンが残っていたので、これらの山間部の人たちには今でも皮膚の色が濃い人が平野部に比べて多いのではないかと想像しています。

 アメリカの黒人達のお尻は後ろに突き出していて、とても形のいいものです。東アフリカのケニアでも同じようなお尻の人たちに沢山会いました。エジプトを除き、アフリカは山が海岸に迫っていて大河川と平野部が少なく農業にはあまり適さなかったので、ほかの地域からの民族移動が妨げられ、今でも太古のアボリジンの形質を体形にとどめているのではないかと思います。これらの人たちにはいわゆる「美人」が少ないことはケニアで確かめました。
 ジャワで見かけるお尻のきれいな人たちはアボリジンの形質を濃くとどめているのではないかと思います。それで彼女達には美人が少ないという理由が成り立ちます。だいぶこじつけのようですが、これも一つの仮説として成り立つのではないかと筆者は心密かに期待しているのです。

 また、スマトラのバタック族やカリマンタンのマレ−シア側に住んでいるダヤック族とカダザン族はモンゴロイドの形質をとどめているために比較的皮膚の色が薄いのではないかと想像しています。三十数年前にマレ−シアのサバ州に転勤していた時に現地のカダザン族の夫婦と話しているうちに「お尻に蒙古班のない赤ちゃんっているの?」とその奥さんから切り出されたときには驚きました。彼らの先祖は氷河期に北から移動してきたモンゴロイドとか言われていますが定かではありません。

 米国のナショナルジオグラフィ-誌によればアダムとイブはいわゆるアボリジンだったとのことですから、人類の発生時点の一つのタイプはアボリジンだったのでしょう。でも、これだけでは世界にたくさんの人種がいることが説明できません。世界の各地に散ったアダムの子孫がその地に生きていくうちに宇宙線などの放射線を浴びて突然変異を遂げたと考えた方が無理がない気がします。あるいは、人類の始祖は世界のあちこちで突然生まれ、たまたま中近東にいた民族の先祖がアダムと呼ばれていたのかもしれません。もしそうならばインドネシア人の始祖はアダム以外の人ということになり、インドネシアのイスらム教徒とキリスト教徒の信じている教えは間違いということになります。この件については別なページで詳述します。

 聖書やクルアンで述べている地域はきわめて狭く南北で二千キロ、東西に三千キロの狭い範囲であり、居住可能地域も限られていたはずですから、その当時この地域にいた人たちを教化するために書かれたこれらの書物ではこの地域の人たちの始祖であるアダムだけで充分であったのではないかとも考えられます。

 現在のものの考え方から離れてそれらが書かれた時代にパラダイムシフトして考えると、聖書もクルアンもそれなりの現実性を帯びてきます。
 例えば、モ−ゼがエジプトから脱出した時に海が二つに割れて彼らを通したと旧約聖書には書かれています。そ−んな都合のいいことってあるのと思いますが、最近の地球物理学によると、モ−ゼの時代だろうと思われる頃に地中海の北にあった大きな島がプレ−トテクトニクスによる地震と火山の大爆発で海底千米位までふっ飛んでしまったとの事です。これに伴い大津波があったはずです。こう書くと信者から怒られそうですが、偶然モ−ゼが通りかかった時に海水が引いて海底があらわれて彼らを通し、その後エジプト王の軍隊がその地点に達した時に津波が襲いかかったと考えるとつじつまがあいます。
 では、なぜ偶然その時刻にモ−ゼが通りかかったかと言うと、モ−ゼがこの津波を予見していたか、あるいは神の意志としか信者には言いようがありません。皮肉な言い方では、もしモ−ゼがこの時に津波に巻き込まれていたらキリスト教もイスらム教もなかったことになります。

 昆虫はその生息環境に適合するように三千万種にも分化してしまいました。一方、人類は分化ではなくて「統合」という進化方法をとっているようです。旧人類の化石は発見されるのですが、現人類に至るまでの途中人間の化石が見つからないということは、この「統合」という進化形式をとっているという証明ではないかと言っている学者もいます。 牛と水牛は形と大きさが似ていますがこの二つの動物の「あいのこ」は絶対にできないとのことです。馬とロバでは一代雑種のラバが生まれてきますが、このラバには生殖能力がありません。一方、どの人種間でもその子孫がつくれます。アフリカのマサイ族とエスキモ−では体型や肌の色がまったく異なり、生物学的には別種で「あいのこ」ができなそうなのですが、子供ができることはご存知でしょう。
 神様がくれたこの「統合進化」という特殊な進化形式を人間がとったために、インドネシアでは東から西まで色とりどりの人種が生まれたのでしょう。

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2015-03- 04 修正
 

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