インドネシア不思議発見 |
第29話 テレビコマ−シャル |
テレビコマ−シャルというものは、視聴者がそうありたいと願っている希望を具体的に映像にしたものではないかと思います。 |
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インドネシアのテレビコマ−シャルを何気なく見ているうちになにか違和感を感じました。コマ−シャルの映像と現実の生活とが妙に食い違っているのです。 こぎれいなダイニングキッチンで、若いきれいなママが料理を手に持って「さあ、いただきましょう」と待ちかねている家族が座っている食卓に運んできます。生活の実状と比べてみるとこのようなコマ−シャル映像にいくつかの間違いが見つかりました。 これほどこぎれいな家に住んでいるのなら、亭主の収入もかなりあるはずですし、女中さんがいて当然なのですが、コマ−シャルには絶対に出てきません。 若いきれいなママは油物の料理していたはずなのですがパ−ティ−に出かけるようなきれいなチャラチャラした服を着ています。これじゃ洗濯をいくらしても間に合いません。またコマ−シャルによってはエプロンをしているママもいますが、実際には暑くてエプロンなどをしていられません。背景に映っている家の大きさや、料理の種類、その材料からみるとエアコンをふんだんに使っているお金持ちの家庭とも見受けられないのです。 インドミーのコマ−シャルでは断食明けの食事に焼きそばの大盛りが出ていましたが、断食明けの食事に脂っこい物は不適当ですし、インドネシアの人は麺を食べるときには必ず白いご飯も一緒に食べるのですが、映像中の食卓にはご飯は見受けられませんでした。 インドネシアでは調理の際の熱で室内が暑くなるのと、油汚れを避けるため、調理場は母屋と別棟か母屋の外にあるのが一般的なのですが、コマ−シャルでは大部分がダイニングキッチン形式です。新しい設計の家でも台所は別の部屋になっています。 洗剤のコマ−シャルでも同じようなことが言えます。洗濯機を買えるクラスの人たちの家庭には女中さんが必ずいるはずです。洗濯は主婦の重労働ですから、このクラスの家庭では女中さんがやっているはずです。奥様がチャラチャラした服で洗濯機の中から洗濯物を取り出して「あら、きれいになったわ」なんて言うはずがありません。洗濯は手でした方がよほどきれいになりますし、人間が洗濯すればファジ−的に最適な洗濯の程度になります、布地の痛みも少なくて済むはずです。また洗剤の消費量も少なくなるはずです。普通田舎では数人で一緒にワ−ワ−おしゃべりをしながら洗濯しますから「静御前」とは呼べないところが問題になるだけです。 コマ−シャルに出てくる家族は必ず核家族です。Dua Anak Cukupという政府の家族計画にはぴったりですが、実状をいうと自分達の子供は二人でも、親戚の居候がいたりしてこんな訳にはいかないはずです。 隣国のマレ−シアでもコマ−シャルはこんな構成でした。これは実状を無視して、先進国のコマ−シャルの映像の制作手法をそのままコピ−しただけだからなのでしょう。 |
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これが庶民の本当の希望なのでしょうか。年寄りのいない生活は主婦にとっては楽かもしれませんが、三世代あるいは四世代の家族が一つ屋根の下に住んでいるのがきわめて自然なのではないでしょうか。人間は必ず年をとって死ぬのが自然なのです。自分の老醜とその後に訪れる「死」を若い孫に見せることが、死の対極にある「生きる」ということの意味を後世代に考えさせる老人の最後の奉公ではないかと思います。死ぬということは自分が犠牲になって後継者たちを生かすという慈善行為の一種なのです。現代の人間に残された最後の自然は「死」なのですが、近代はその「死」という自然をも覆い隠そうとしています。日本では大多数の人の死亡地点は「病院」と言われています。 老人のいない家族はこの傾向を顕著に表しているのではないでしょうか。 インドネシアは今、先進国が道をあやまった時点にさしかかっていて、先進国と同じように間違えようとしています。これをどう軌道修正していくかがこれからの地球環境問題を考えていく上で大切なことではないかと思います。 卑近な例では、洗濯機を使わずに女中さんを使うことがあげられます。これにはたくさんの利点があります。 |
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まだまだあげればきりがないのでここいらへんでやめておきます。 日本では家庭内労働希望者がほとんどいないことと、家事にさける主婦の時間が限られていることから家庭電化製品が普及したのです。しかし、インドネシアは日本とはまったく労働力の需給状態が違いまだまだ女中さん希望者が多いのですから、ここでこんな偏狭な日本的な考え方を捨てて現地式に徹してみるのも一つの経験です。 |
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帰国してお友達に、インドネシアまで来て女中さんを使わなかったと話したら「アンタ馬鹿ねぇ。インドネシアでなにやってたのさ」と笑いものになるのがおちです。「女中さんをつかわないでよくやったわねぇ」とほめてくれる人はよほどの偏屈にちがいありません。 |
以下は2015-03-04に追加した分です。 |
1996年の時点ではこのような状況でしたが、約20年後の2014年には女中さんの市場がかなり逼迫してきて、なり手がいない状態になってきています。筆者と同年配のジャワ人の友人宅では海外に働きに行く女中さんたちの訓練生を安く雇っていましたが、最近では訓練生そのものが減少してきているとのことです。インドネシア人の若い人たちの中高等教育が進んだため、企業で雇われることが多くなったからでしょう。間接ではなく直接労働に従事すればするだけ経済が活発化するのは自明の理です。 また、昨今のインドネシア経済の好調のおかげで、自動車のみならず家電製品も大量に市場に出回るようになり庶民にも手が届くようになりました。 女中のなり手がいなくなったという理由以外に、家電製品が普及したことが、家内労働者(女中やハウスボーイ)の減少理由としてあげられるでしょう。 とはいうものの、友人宅に1970年代から勤め続けている60歳台の女中さんたちには、仕事を辞めて田舎に帰るよりもこのままずっと旦那さんと奥さんの世話をしていたいと言っていた人がいました。その方が全てにおいて気が楽だ、というのです。 |
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2015-03-04 追加修正