インドネシア不思議発見
13話 生活の中のイスラム - (1)
(服装・挨拶・割礼・複数妻・断食)
 宗教音痴の日本教徒にとっては信じられないのですが、人が生まれてから死ぬまでの一生の区切れだけではなく、インドネシアでは生活の隅々まで宗教が入り込んでいて、毎日の生活の中でも、食べ物だけではなく、礼拝、宗教に関連した休日にも絡んでいます。第十一話の「結婚と離婚」に書いたように戒律に縛られた生活をしています。自分自身は宗教的戒律に縛られていないと日本人は思っていますが、仕事が第一で家庭や自分はその次などと、実は日本教にかなり縛られています。今年は川崎大師に初詣に行ったから来年は明治神宮だなどという宗教をごっちゃまぜにして平気な「日本の常識」というのは、よその国の人たちからみると自分達の常識と合い入れない「日本教の戒律」になっているのかも知れません。第三話の表題のように「日本人は仕事が宗教」とも言えますし、科学技術一辺倒で今まで繁栄を誇ってきたために、日本人は科学だけを信奉する「科学教」の狂信者ともいえましょう。それでイザヤベンダサンが「日本教」と呼んでいるのでしょう。

 日本教徒から見てちょっと変だなと思われるインドネシア人の生活の仕方などで、イスラム教とムスリム(イスラム教徒)に関連する事柄についてこれから数回に分けてお話ししようと思います。

 これ以下の文中のカタカナ中の平仮名は「L」の発音で読んで下さい。読者のみなさんがインドネシア人と会話する時に使いやすいように、この文の中では日本語での呼び方ではなくインドネシア人が呼んでいる名称を記します。たとえばモハメットはムハンマド、コ−ランはクルアンなどです。中学や高校の世界史で習ったように、イスらム教はムハンマドが神の啓示を受けて始めた宗教です。キリスト教やユダヤ教とは兄弟分に当たりますので、キリスト教の旧約聖書をそのまま使っています。でも聖書に出てくるモ−ゼはム−サ、イエスはイ−サと少し読み方が変わっています。しばしば耳にはさむインドネシア人の名前のイブロヒムはアブラハム、スれイマンはソろモンというぐあいなのです
1. 身なりに気を使う

 町を歩いていても、事務所にいてもインドネシア男性は日本人に比べて身ぎれいにしている人が多いと思いませんか。日本人男性は仕事をする時は少々古くてもその仕事に応じた服装で全く問題にしませんが、インドネシアの男性は女性のように身なりにとても気を使い、仕事のできばえよりも自分のみてくれの良さを誇りにしているようにも見えます。これは韓国人にも共通します。

イスらムではお祈りの際には臭かったり、汚れていたり、見苦しい格好をしていてはならず、たとえ服が古くてもきちんと洗濯をしてアイロンをかけてビシッとしていなければなりません。ですから、洗濯物についているばい菌や有害な昆虫を殺す意味もあって、女中さん達は洗濯物全部に必ずアイロンを当てるようにしているのです。本当のところ、これは「こじつけた理屈」で、「ただの見栄っ張りの怠け者」ではないだろうかと筆者は疑っています。
2. 挨拶もイスらム流なのだ

 筆者が最初にインドネシアに赴任した20年前には「アッサら−ムアらイクム」のようなイスらム流の普通の挨拶はあまり聞こえなかったような気がします。共産党が追放されたのが30年前ですから、20年前にはまだ自分の信条を押し殺しても相手と合わせるといった風潮が残っていたのではないかと思います。現在は自分の信条を素直に出して、自由に自分流で挨拶ができるようになりました。

 隣近所の子供達が登下校する時には必ず、「アッサら−ムアらイクム」の元気な声が聞こえます。この挨拶の言葉は非常に幅広く、日本語で「行ってきます」「ただいま」「ごめんください」「こんにちわ」などの時に使われています。意味は「あなたに平安あれ」で、これでもまだ省略型で、もっと丁寧に言う場合には「アッサら−ムアらイクム、ワらモトろ−ヒワバラカ−ト」になります。この返事は「アらイクムサら−ム」で「ワらモトろ−ひワバラカ−ト」をつけるともっと丁寧になります。

 子供達を客に挨拶させるときにも「サらム」しろと親は注意します。これも「サらム=selamat=安全・平安」という言葉から来ています。またアラブととても仲が悪いといわれているユダヤ人の言葉のヘブライ語では「シャろ−ム」です。このふたつの民族は全く人種が異なると日本人は思っていますが、ほとんど同じ種族で外観からは現地人でも見分けがつかないほど似ているし、お互いの言語も近い親戚同士ですからすぐに理解できるようになるとのことをイエルサれム出身のパれスチナ人から聞いたことがあります。

 なにかを始めるときにインドネシアの人たちが口の中でもじょもじょ言っている言葉は「ビスミら−」で「アッら−の御名において」と言う意味のクルアンの最初の言葉です。日本語で「うまくいきますように」と言う時によく使われます。

 何かをうまく仕上げて褒められたときには「アるハムドゥりら」と言います。これもクルアンのAl-Fatihah = 第一章 開扉」の第一句(Ayat)「讃えあれ、アッら−万世の主」の最初の言葉です。ちょうど日本人が「おかげさまで」と言うのと同じ状況で使われています。

 またよく聞かれる言葉に「インシャら−」があります。これは「神のお恵みがあれば」という意味で、なにか約束をする際に「自分は最善の努力をするけれども、もし神様がそう望まないなら、申し訳ないけれど約束を破る結果になるが勘弁してくれろ」という意味にもなろうかと思います。でも、一般的には「自分は最善の努力をするけれども」の部分がまったく抜けていて「ケセラセラ=なるようにしかならない」の意味が強いのです。アラブ人同士でもあまりこの言葉を繰り返すと喧嘩になります。インドネシアでこの言葉を聞いた場合は、その約束の内容と話手が頼りになるかどうかをよく確かめないと、とんでもない失敗をしますから、注意してください。またこの言葉はしたくない約束をさせられる時に逆用してやると効果的です。

「アラブのIBM」という言葉があります。これはこの「インシャら−」のIと、ボクラ(明日)のB」、「マニッシュ(気にしない)」のMの頭文字をとったもので、いつまでたっても仕事が終わらないのをからかう時に使います。
3. 割礼とポトンギギ

 第十一話の「結婚と離婚」に書いたように、ムスりムの男子は包皮が長いためにほとんど「割礼」をしています。これは成人までの通過儀礼の一つになっており、盛大にお祝いをします。もし、このお祝いに招かれたらその子供の好きそうな物を持って行ってあげてください。両親はとても喜びます。割礼は大体8から10歳くらいの年齢で行います。この年まで育てると、子供は餓えていたら盗んでも食べ、餓死の危険からは遠ざかり、動物の種として一応自活できるようになりますから、この位の年齢で行うのだと思います。これ以下だと幼すぎていつ死ぬかわからないし、これ以上だと羞恥心が出てくるからなのかと思います。

男の子はこれでいいとして女の子はどうするのかというと、誕生直後にクリトリスの先を少し削り取ってしまう人もいるとのことです。しかし、これは余り一般的ではなく、ポトンギギをするのがが少し前までは一般的でした。女の子が男の子でいう割礼の年齢に達した時に、やすりで歯並びを平らに削り取ってしまうのです。ですから、中高年の田舎出身のオバさん達の前歯がきれいに平らになっているのをよく見かけます。今は田舎でもポトンギギはしなくなり、歯磨きの宣伝のような自然な歯並びの人が多くなりました。インドネシアの人の歯並びの良いのは固い物を良くかんで食べるからだとか、毎日五回の礼拝の際に口をそそぐからだとか言われていますが、実際に観察しているとこれらはあまり当てにはならず、遺伝の傾向が強いようです。
4. 複数妻

 「あそこのうちの運転手には奥さんが二人いるんだって、ヤ−ネ−」と日本人の奥さん達がよく噂話をします。どうして「ヤ−ネ−」なのかを尋ねてみると「好色である」という理由があげられます。では「好色=ヤ−ネ−」が正しいかどうかと自問自答すると、答に詰まってしまいます。これはセックスを隠すのが日本教の教えだから「好色=ヤ−ネ−」になるのです。イスらムでは堂々と表面切ってセックスの話がクルアンの中にもでてきます。第二章 雌牛 = Al-Baqarah 第187句(ayat)にこうあります。

 あなたがたは斎戒の夜、妻と交わることを許される。かの女らはあなたがたの衣であり、あなたがたはまたかの女らの衣である。アッラーは あなたがたが自ら欺いているのを知っておられ、不憫に思われ、あなたがたを許された。だからかの女らと交わり、アッラーがあなたがたのため、定められたところに従え。まだ白糸と黒糸の見分けられる黎明になるまで食べて飲め。その後は日暮れまで斎戒を全うしなさい。マスジドに御篭りしている間、かの女らに交わってはならない。これはアッラーの(定められた)掟だから、かの女らに近づいてはならない。

また、複数の妻について、第四章 女 = An Nissak 第24句(Ayat)にはこうあります。

 またあなたがたに(禁じられている者は)、夫のある女である。ただしあなたがたの右手の所有する者(奴隷の女)は別である。これはあなたがたに対するアッラーの掟である。これら以外は、すべてあなたがたに合法であるから、あなたがたの財資をもって、(良縁を)探し求め、面目を恥ずかしめず、私通 (のよう)でなく (結婚しなさい)。

 どうも、これが根拠で子供を持っていない複数の女性を奥さんにしている人がいるようです。また、第四章 女 = An Nissak 第3句(Ayat)にはこうあります。

 あなたがたがもし孤児に対し、公平にしてやれそうにもないならば、あなたがたがよいと思う2人、3人、4人の女を娶れ。だが公平にしてやれそうにないならば、只一人だけ(娶るか)、またはあなたがたの右手が所有する者(奴隷の女)で我慢しておきなさい。このことは不公正を避けるため、もっとも公正である。

 ここで言う孤児とは「テテなし子」のことで、いかなる理由にせよ父親がいない子供達のことを指します。jandaのかかえた子どもの養育という理由で結婚することは「徳」になっているのです。

 現在はだいたいどこの国でもインドネシアの公務員も、一夫一婦性が普通ですが、イスらムだけはどうして複数妻を許しているのでしょうか。ここで、田辺聖子の「カモカのおっちゃん」ならぬ、筆者の親しくしている超能力者のザイヌディンL.Y師に聞いてみたところ次のような答が返ってきました。

 「ムジャヒディン君。君は、君が現在おかれている環境から考えるから訳がわからなくなるのだよ。この当時ムハンマドがおかれた環境を想像してごらん。日本でいえば『大化の改新』の前の話だよ。この当時は『エスカレ−トする仇討ちの仕返し』やら『やらずぶったくり』や『強盗・殺人』、『高利貸し』などが当たり前だったんだ。隊商にでた夫が途中で強盗に襲われて殺されたり、イスらムの聖戦(ジハ−ド)などで戦死者が沢山出たんだ。この戦死者の遺族の面倒はだれが見るのかね。社会保障制度は完備していたかい。軍人恩給などもなかったでしょう。同じイスらムの同士で助けあっていくしか道は残されていなかったのではないかい。旦那に死なれた遺族はその生活に困って、末は餓死するしかなかったんだよ。みすみす餓死させるくらいなら彼らを引き取って生活をさせてやることは、君の好きな言葉の『ヒュ−マニズム』から見ても、理にかなっているでしょう。」と。

 「それに、ムハンマドの当時は奴隷取引が普通であり、たくさんの男女奴隷がアラブの社会にいた。男性の性欲のはけ口として、一般市民を対象とするよりも、自分の管理下にある奴隷の方が社会的に影響が少なかったことは言えるな。もちろん奴隷たちは人権などはご主人様の半分しかなかったから、義務も半分しかなかったんだよ。そういう社会だったんだ」と追加してきました。

 同師のこの説明で、たしかに見殺しにするよりは引き取ってやった方がいいことは分かりましたが、でも契約結婚についてはまだ問題があるような気がします。どうなんでしょうか。この師匠はかなり観察力が鋭く知識も広い方でこんな風に答えました。

 「この当時はまだばい菌が病気の原因になるとは分かっていなかったんだ。これが分かったのがたった150年前のことなんだよ。1500年前の人たちに病気はばい菌やウイルスで伝染するのだといったって分かる訳がないでしょ。気違い扱いされるだけだよ。だから、梅毒、淋病などの性病や粘膜を通じて伝染する病気を防ぐためと、遺産相続の際のごたごたを避けるためにこんなことをアッら−はいったのではないかと思うんだ。一時的な結婚はいいが、放縦な女遊びは禁止(インドネシア語ではKumpul kebo=水牛の交わり)しているんだ。ムジャヒディン君、君も覚えていると思うけど、タイのチェンマイに玉本さんという日本人男性が十数人の奥さんをもっていたでしょう。これは一種の社会保障制度なんだよ。だから正しいことなんだよ」。

 「また、超能力者から見ると、男女の交わりは体の一番薄い粘膜を通じて行うから、夫婦の交わりでも自分自身の持っている「波動」を乱すことになり、心身に悪い影響を与える。一人の妻でもこうなんだから、乱交したらどんな結果になるか想像できるでしょう」と。

チェッしょうがない、ここいらへんで追求は諦めることにしておいて次の話題に移りましょう。
5. 断 食

 断食と聞くと思わず、エエ−ッ「断食道場=絶食療法」と思ってしまうのが日本人です。イスらムの断食はイスラム暦の第九の月のRamadhanに行われます。日の出から日没まではいっさい飲むことも食べることもしてはならないのです。これもクルアンの第二章 雌牛 = Al-Baqarah 第183 & 184句(Ayat)に従っています。

 信仰するものよ、あなたがた以前の者に定められたようにあなたがたに斎戒が定められた。恐らくあなたがたは主を畏れるであろう。
 (斎戒は)定められた日数である。だがあなたがたのうち病人、または旅路にある者は、後の日に(同じ)日数を (斎戒)すればよい。それに耐え難い者の償いは、貧者への給養である。すすんで善い行いをすることは、自分ために最もよい。もしあなたがたがよく(その精神を)会得したならば、斎戒は更にあなたがたのために良いだろう。

 どうして難行苦行をひと月もしなければならないのか、不思議です。この一般的な答は「空腹に耐えて、食べ物もない貧乏人の苦しみを分かち合うのだ」ですが、それなら、ひと月の間、毎日毎回タピオカのお粥と青菜だけで過ごしてみれば本当に貧乏人の苦しみが実感できるのに、日没後にはムスりムたちは盛大にご馳走をたらふく食べているではないか。なにか変です。どうもこの説明は本当の理由ではなく、こじつけたものらしいのです。そこでまたザイヌディン師に登場願って説明してもらいましょう。

 「ムジャヒディン君。君は本当に『目のつけどころがシャ−プ』だね。君の指摘は正しいよ。人間たちの食べ物として獣の肉は余り適当でないんだ。だからヒンドゥ−教徒でも菜食主義者がいるでしょう。君達が食べている肉のうち特に健康に害を及ぼすのは羊や山羊なんだ。見てごらん、インドネシアでも肉類が好きな人はたいてい高血圧で糖尿病だろう。今のアラブでもそうなんだ。なんでこれらの家畜の肉が良くないかというと、かれらの食物はすべて草なんだよ。現代の化学工場でも数少ない種類の材料を使い単純な製法でできる製品には、あまり品質の良くないものが多いことを知っているだろう。これが理由だと思うんだ。断食にはこれらの病気の元になる食肉に含まれる有害毒素を体外に排出する効果があるとおもうんだ。でも、豚肉だってそれしか食物がない場合には食べてもいいんだ、ただし自分の生命を維持させるための特例としてネ」。

 ははあ、それで神様は、羊を余り食べない中国などの地域には断食を命令しなかったんでしょうね。でも、いったいなんで神様が毒素を持っているこれらの家畜を食用とさせたんでしょうか?変ですよね。師は続けます。

 「これには三つの理由があるんだ。それは、この地域は乾燥地帯だから川が少なく海に流れ込む栄養分が少いことで魚介類が繁殖しにくい環境にあることが第一の理由。また、地図を見たら分かるように都市が海岸線から離れているのでタンパク質を新鮮な魚介類からとりにくい地理的環境にあることが第二の理由。最後の理由は、乾燥地帯だから稲作ができず主食は麦に頼るしかないんだ。麦は米に比べて体が利用できるタンパク分が少なく、パンを主食にしている地域ではタンパク質をどうしても他の食料から補わなくてはならないといった栄養学的理由なんだ。これですっきりしたかい、ムジャヒディン君」。続けて、「ちょっと冗談だけど、羊や牛のように反芻(はんすう)する動物は何回も胃から食べ物をもどしてぐちゃぐちゃ噛んでいるだろう。こんな動物の肉ばかり食べているからインドネシア人は仕事を一回で終わらすことができなくて何回もやり直しをするようになってしまったんだ。これを『インドネシア作業反芻の法則』って言うんだ。これもこの前から君が言っているSumber Daya Manusia(人的能力)に関係しているんだろうね」と。

 また、師によればインドネシア人が飽きっぽく長続きしないのは、「断食のひと月の間に一年分の忍耐力を使いきってしまうから」なのだそうです。この師匠はかなり口が悪く、冗談ポイのひとですから、この理由もマユツバものです。

 ムジャヒディン君も1997年から延々と十数年間考えたすえこんな結論に至りました。断食月間とは名ばかりで、実は「栄養補給月間」だった、と。

 この断食は「新月」の朝から次の「新月」の前夜までとなっています。「新月」かどうかは暦も少なく、時計もなかった頃でしたから、日没直後に西の空に糸のような月が見られた時に断食は明けるとしています。インドネシアでは断食明けの日は毎年カレンダ−に記されていますが、この規律を厳格に守るマれ−シアでは、あいにく西の空に雲がかかっていて月が見えない年(29日の場合)には断食が一日延ばされたとも聞きます。どうも神様は信者をアラブの乾燥地帯を主体に考えていたようです。

 ジャカルタの大衆紙「ポスコタ」に2000年に掲載されていた断食月間の心得をまとめて掲載しましたので、断食を行う方たちの参考にしていただければ幸いです。

  また断食月の始まる前から毎年食料の物価が急上昇します。1996年には断食開始三週間前から物価が数十パーセント上昇し、主婦たちの悩みの種になっています。特に鶏卵はおかずにもお菓子にも使いますからひどいものです。断食が終わってやれやれと思っていると中華正月(Imrek)が来て、また物価が上がってしまうのです。それとともに主婦の血圧も上がり、世の亭主族は毎日小言を聞かされる羽目になっているのが毎年の行事です。筆者も「こんな食費じゃやっていけない」とコックさんに小言を毎日言われ続け、ただただ忍耐・忍耐の日々を送っています。

[参考文献]
1.「聖クルア−ン」 日本ムスリム協会発行
2.「Tafsir Quran Karim」 Prof. Dr. H. Mahmud Yunus
3.「料理の起源」中尾左吉著 NHKブックス
4.「現代科学・発展の終焉」村上陽一郎・ひろさちや対談集 主婦の友社刊
5.世界の聖典 3「ひろさちやが聞くコ−ラン」ひろさちや+黒田壽郎対談集 すずき出版
6.「生命場の科学」 ハロルド・サクストンバ-著 日本教文社刊
7.「波動の真理」 江本勝著 PHP研究所刊
8.「波動と水と生命と」 江本勝著 PHP研究所刊
9.日本のゴシップ週刊誌
10. ジャカルタの大衆紙「ポスコタ」
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2015-03-02 修正
 

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