インドネシア不思議発見
8話 禁酒と豚肉の秘密
 酒と言えば日本酒、灘の生一本。暑い時期には冷用酒もなかなかいいものです。これは日本の話。

 今を去ること千数百年から二千年前の中東西部のパレスチナからシリアにかけての地域を想い巡らせて下さい。この地域は古代から灌漑設備が盛んに建設され農業地域として繁栄を続けてきました。肥沃な大地には山や川から水が引かれ、その農場からは野菜やオリ−ブや葡萄、オレンジなどがたくさん取れました。

 野菜は旬や季節があるといっても、種類や作付け時期に応じて取れますから、特に保存を考えることはなかったでしょう。また、オリ−ブやオレンジは果物のままでもかなり保存がききますし、ほかの方法では数年間の貯蔵ができますから、これも特別に問題になることはなかったと思います。問題は葡萄なのです。生食ではいくらなんでも食べきれません。葡萄の保存方法は、乾燥して干し葡萄にするか、葡萄液を固めてプリンのようにするか、あるいは葡萄液として保存するしか方法が見あたりません。干し葡萄といっても毎日では飽きてしまいます。すると、葡萄液が最高の保存方法になります。葡萄液はそのままほおっておくと、アルコ−ル発酵をおこし葡萄酒に変わってしまいます。葡萄酒も最後にはワインビネガ−になってしまいます。我々が飲んでいる日本酒は米という主食原料から作られるので、食用の米が不足し続けている間は日本酒の原料が足りなくなります。しかし、葡萄はそのものを米のように主食に転換できないので、生産の余剰分はいきおい葡萄酒の方に走らざるをえなかったという葡萄独自の特異性もあります。

 キリスト教の絵画に描かれている食物のうち植物性の物はパン、オレンジ、葡萄と葡萄酒が大多数で、一部に淡水魚らしきものがあるだけで残りは畜産物です。これは特にパレスチナの土地(キリストの育ったナザレはパレスチナのヨルダン川上流にあるガラリア湖の西側に位置します)では雨量と灌漑用水量の関係などから作物に制限があったのだろうと思います。文献から見るだけでも同時期の大和時代の日本人の方がイエス様よりもよっぽどたくさんの種類の食物をとっていたようです。

  さて、酒を飲んだら今でもトラになる人が多いのに、この当時の人はどうだったでしょうか。部族間や家の間で喧嘩が絶えなかったのではないかと思います。この当時は部族というより村落共同体で一つの村落が一つのグル−プとして抗争に当たっていました。こちらが一人けがをさせられれば、相手の部族の一人以上を「ポァ」するといった堅い掟で縛られていたのです。ですからいったん抗争が始まると憎しみとともにその規模と犠牲が次第にエスカレ−トして、昨今のボスニア・ヘルツェゴビナや旧ユ−ゴスラビヤのように泥沼のような状態になることがしばしばあったそうです。

 ここで、「目には目を」の言葉が生きてくるのです。これは「失明させられたら相手を失明させることで、抗争に終止符を打ちなさい」ということだったのです。傷つけた相手が物品や金銭で保証しようとする場合にはできるだけそれで納得せよ、とコ−ランにもあります。「目には目を」は決して暴力を肯定する言葉ではなく、抗争の規模拡大と泥沼化を防ぐための掟だったのです。イスラムはヨ−ロッパ経由で日本に入ってきましたから、日本人のイスラム観はヨ−ロッパ人のスクリ−ンを通じたものであって、実像はかなり歪曲されています。欧州が過ごした1,000年間にわたる中世の時期に、中東では数学、天文学などの科学技術のみならず種々の学問、さらに実利的な経営術なども花開き、数多くのアラブ人経営コンサルタントをヨ−ロッパの王室に送り込んで国家の運営に役立てていました。ですから長い間ヨ−ロッパ人はアラブ文明コンプレックスがあったのです。このコンプレックスを解消しつつあったのが産業革命から始まる植民地時代でした。植民地時代後半に情報を仕入れ始めた日本はこの「アラブコンプレックス」に裏打ちされた中東に関する情報を入手したのですから、良い情報などあるわけがありません。それで、日本は「中東音痴」なのです。今でもアラブの芸術や技術はガラス細工、ドイツの鷲のマ−クなどに見られます。またフランス語のキャセロ−ルの「キャセ」とはインドネシア語の「kaca = ガラス」と語源を同じくアラビア語としています。(脱線してごめんなさい)

 この当時はロ−マ帝国の力が弱まってきて、社会不安など出てきたころです。ただでさえ、激しい性格の各種の人種が混在して経済や政治の覇権争いをしていたのです。今でも、シリアの最も古い町の一つであり、シルクロ−ドの中継点でもあったアレッポでは、安全のためにアラブ人とユダヤ人、アルメニア人としっかりと住み分けている程なのです。こんな社会情勢の中で、どうしようもないウサを晴らすために大人だけではなく青少年も飲酒が普通になっていたのではないかと思います。

 そこでこんな「ユスフとアジザの悲しい物語」が登場するのです。
昔むかし、とある中東の町にユスフという男の子とアジザという女の子が住んでいました。ユスフはお金持ちの子供でアジザは貧乏な家の子供だったのですが、幼い頃から仲の良い兄妹のようにして遊びたわむれていました。
 やがて、ユスフは立派な青年になり、父親と共にキャラバンで遠くの町まで行くことになったのです。途中にはキャラバンを山賊や狼、ハイエナなどが待ち受けているような危険な旅だったのです。出発する一週間前からは二人は毎晩会って、寂しく辛く長い別れを惜しみあいました。アジザは神様にお祈りをしたり必要な品を整えたりして、実に細やかにいろいろとユスフの世話をやいたのです。
 「こんどあの人が帰ってきたら結婚しよう」という希望だけでアジザはそれから数カ月を過ごしたのです。
 ユスフが帰ってきました。何ヵ月も待ち望んでいたいとしい人との再会です。でもアジザはユスフの前に出ると胸が一杯で言葉に詰まってしまいました。ユスフが切り出しました。「僕らは結婚しよう」と。なんという言葉なのでしょう。アジザが一番待ち望んでいた言葉がユスフの最初の言葉だったとは。
 でも、運命のいたずらか、ユスフとアジザの両親は家の格が違いすぎるということで結婚に反対し続けました。二人は懸命に両親を説得したのですが、それでもなかなか首を縦に振ってはくれません。このあいだに、二人は以前にも増して親密になり、ある夜の宴会の後で夜風で酔いをさましている時に二人は結ばれてしまったのです。家族計画の道具がない時代のことですから、すぐにアジザはみごもってしまいました。未婚の娘がみごもるなどとは親の権威にもかかわると、父親はアジザを家に閉じ込めてしまいました。でもユスフが夜中にこっそりと毎晩訪ねてきてくれるのがアジザにとってたった一つの救いだったのです。
 月が満ちて赤ちゃんが生まれました。でもこの子は社会的には認められません。抹殺するしか、自分達の家族の生きる道はありません。
アジザは自分でへその緒を切り、ついに赤ちゃんの首を締めてしまったのです。夜中に訪ねてきたユスフとこの遺体について相談しましたが、なかなかいい案は出てきません。墓地に埋葬すれば誰かに見られるだろうし、後で掘りかえされたら赤ちゃんのミイラが出てくる。遺体が見つからないように砂漠に捨てに行くには遠すぎて危ない。最後に残ったのは、豚にこの遺体を食わせてしまおうという案でした。これならば絶対に証拠が残らないし、処分するにも遠くまで行かなくても良い、ということでした。なくなくユスフは愛児の遺体を養豚場に置いてきたのでした。それから毎晩二人はこの子供の悪夢にうなされていたとのことでした。
 このようなユスフとアジザが数限りなくあったことと思います。「酒さえなかったら」こんな悲しい終末にならなかったと思います。また、嬰児の遺体を食べて育った豚の肉を誰が食べたがるでしょうか。

 こんな訳で、イスラムでは飲酒を禁止していると同時に、嬰児の恨みがこもって汚れている豚肉を食べないようにしているのではないだろうかと想像するにかたくありません。もちろん、このユスフとアジザの話は筆者の創作ですが、酒と豚肉の歴史の裏にはこんな悲しい話もたくさんあったのではないかと思います。

 酒についてコ−ランには二通りの記載があります。一つは「絶対禁酒」で、もう一つは「お祈りの時に酔っていてはいけない」です。

 最初の「飲酒」ではアラックというホワイトブランデ−の名前を掲げて、これを飲んではいけない、とあります。しかし葡萄液は飲用禁止にはなっていないのです。いかなる微量のアルコ−ルも摂取してはいけないとなると、パン酵母や発酵をそのプロセスとする食品から発生するアルコ−ルもこれに含まれることになり、食べるものがなくなるのです。

 インドネシア人はモスレムでもタピオカやもち米を発酵させて甘くやわらかくしたタパイ(tapai)あるはタペと呼ばれるお菓子やこれを裏ごしして蜜柑で味を付けたをBremという酸味のきいたお菓子が大好きです。Tapaiは少し酸味のあるアルコ−ル臭がします。これを水に溶いたものは日本の白酒と良く似ています。これは絶対に酒の一種であるからモスレムは飲んだり食べたりしてはいけないと筆者はモスレム達をからかっているのですが、そんなことは馬耳東風で無視されてしまいます。シカト(無視)することをこちらのスラングでは"cuek"といいます。(また脱線!)

 アッラ−がムハンマドに本当に伝えたかったのは、二番目の「お祈りの時に酔っていてはいけない」ということだったのでしょう。酔って瞑想しても、まったく効果がありませんから、酔っぱらっていくら「アッラ−が偉大だ」といっても「テ、ヤンデ−、畜生!」なんて絡んだりしたら、お祈りに何の意味もなくなってしまいますから。

 仏教学者の、本人はブディストライタ−と言っている、ひろさちや氏は対談集「ひろさちやが聞くコ−ラン」の中で「ムスリムは全員在家信者」と言っていますが、筆者の目には「ムスリム、総ボ−ズ」に映ります。我々の回りのムスリム達は毎日熱心にお祈りをして精進しているのですから、関心だねぇと褒めてやってもいいほどです。ある時「日本人はお祈りしないの」と尋ねられて、答に詰まり「君達ほど罪深くないから神様に謝らなくてもいいんだ」と苦し紛れに答えたことがありました。  

[参考文献]
「ひろさちやが聞くコ−ラン」ひろさちや+黒田壽郎対談集 すずき出版刊
目次に戻る 不思議発見の目次に戻る


2015-03-02 修正
 

inserted by FC2 system