インドネシア不思議発見
第2話 お金持ちと貧乏人
  よくインドネシア人たちは「日本人は金持ちでインドネシア人は貧乏だ」と引き合いに出して自分の責任を転嫁しようとします。こうも言えなくもないのですが、よく考えてみると、ジャワ島の中でもジャカルタは裕福ですが、他の地域は貧乏です。さらにジャカルタだけをとってみてもクバヨランバるーやポンドックインダーの人は金持ちですがスンテルやプルイット更にタンジュンプリオクの人たちはそれほどでもありません。これは国の間の経済力の差がそのまま国内に持ち込まれているだけなのですから、所得の差だけで責任を転嫁することは正しい方法ではありません。

 日本での給料の額をそのままルピアに換算すると確かにとてつもない額になりますが、インドネシアの一般の人たちは、自宅の場合には小学生二人の子供と両親で、生活費がRp3,000,000あればひと月をゆうに過ごせますので、この生活費を元に¥とRpの換算レ−トを設定すると一円がRp10に相当することを覚えておかれると良いでしょう。これも、論争の道具として使えます。「日本人だって日本ではギリギリの生活をしているんだ」だからちっとも貯金ができない。貯金がゼロだったら、ゼロを何倍してもゼロで、金がたまらない君達と変わらないじゃないか」と日本教徒の悲哀を語ってやるのも良い方法でしょう。

 もう一つ、忠告の中にブラックユ−モアをまじえるのもとても良い方法です。例えば、インドネシアでは中古車ならぬ車齢が20年はゆうに越えた大古車がたくさん走っています。「クラシックカ−は金持ちの象徴である。インドネシアにはクラシックカ−が多い。それは、新しくてチャッチイ車よりも、古くて良い車をいつまでも大事に使う金持ちのシンボルではないだろうか」と三段論法で攻めると、相手は根負けした上、「ユ−モアあふれる人だ」とあなたは尊敬されるようになります。

 インドネシア人たちがへ理屈をこねる時に、このように発想方法をまったく変えて論じ、彼らの理屈が正当でないことを証明してやると、「あなたはクリアティブだ」とほめられ、あなたの話が通り易くなります。面と向かって直接的に非難するのは議論の方法でも説得の方法でも最低のやり方です。日本教徒はガツンと直接的にやるのがお互いの時間の節約になるため、暗黙の了解の元にこのような方法をとるのですが、インドネシアの一般の人たちには時間の節約という概念がないので、ただ恨みを買うだけになります。  

 「それにしても女中さんの給料は安くてかわいそうじゃない」とおっしゃる方がいらっしゃると思います。給料の額は第五話に書くように労働市場の需給関係から決まってくる相場なのです。でも住み込みの女中さんたちは落語のジュゲムにある「食う・寝る所に住む所」が決まっていて、更に小遣いまで貰えるのですから、女店員などよりも生活費が少なく、より良い待遇を受けているのです。

 昭和20年代までは日本でも女中や書生さんのいる裕福な家庭が多かったのですが、産業の発展とともに彼らは工場や会社に消えていきました。同じようなことが英国でもあったとロンドンから来た老婦人から聞いたことがあります。この国では職場の増加数よりも求職者の増加数の方が多いためと、職場の省力化のために労働者を減らす方向にありますから、まだまだ女中さんという職業はこの社会からなくならないと思われます。

 この国ではお金持ちは日本社会の中のお金持ちよりも多く、またその程度もかなり高いのです。日本では戦後農地改革や財閥解体などにより、財産が国民的に平準化されたために「一億総中流化」が生じた上、明治以来の百年にわたって日本人が近代工業化社会に適合した教育を行ってきたために、現代の日本は「均一社会」に近い状態になっているのではないでしょうか。一方インドネシアではこのような歴史的・社会的背景がなかったため、生まれた時から金持ちと貧乏人との間に大きな差がついている「階級社会」なのです。

 このような「階級社会」に既に身を置いている「日本教徒」のあなたには、この不均等社会に生きている人たちを、気がつかれた身近な問題から、観察してみるのもとても興味あることでしょうし、この社会では高給取りの「日本教徒」がどう生活すべきなのかを考えるのも、地球化しているこの現代にとても大事なことだと思います。

 コ−ランの中では、お金を社会に役立てることができる人に神様が一時的にたくさん預けているのだ、という考え方があります。ですから貧乏人にはその分け前が行って当然なのです。こずかいをあげては失礼かとは思わずに、なにか特別にしてもらった時にはそっと手渡してあげるとかなり効果的です。空港のイミグレで金持ちの日本教徒から金をせびるために何のかんのと文句をつけられた時には、「孤児院に定期的に寄付をしている」との一言で旅券を返してもらえることが多いのもイスラムの教えからなのかもしれません。 

 日本人が使っている物を、イケずうずうしくも直接「それをくれ」としばしばインドネシア人に言われることがあります。あげないと「ケチ」と言い返されます。気の弱い人は言われるままあげてしまうことが多いのですが、極めて腹の立つ言いぐさです。お土産を分ける時にも「不公平だ」と言われることがしょっちゅうです。はらいせに、こんな風に言ってやっています。

   最初の例では、「貧しい人に恵むことが最大の功徳になる」という彼らの論拠ですから、いつも友人達がたくさんいる前でこう言ってやります。 

 「あんたは貧しい人のグル−プには入らないと判断する。イスラムの掟に従っても、お前には何もやる必要がない。おれが一番嫌いなのは自分で努力せずにminta-minta(物乞い)ばかりする奴だ。しつこくMintaされると、もっとやりたくなくなる」ここで彼らは大体黙りますが、イヤミな奴は「じゃあ、もうmintaはしない」と、欲しそうな顔をします。そこで最後の強力な一発。「お前がmintaしなかったら、お前がなにを欲しがっているかが俺には分からない。だから論理的にもお前には何もやれないことになる」と。これで満座が爆笑の渦に包まれます。Mintaばかりしている人はインドネシア人の中でも嫌われ者ですから、「ざま−みろ= Rasain」とみなの留飲を下げてやることにもなり、一石二鳥です。  

 次のお土産の例では、「出発する時に俺に路銀(bekal)もくれないのに、戻ってきたらお土産を請求するとはずいぶん不公平な話だ。お前は、親戚がハッジ(モスリムの最も大事な行為であるメッカ巡礼)に行く時にも同じようにお土産だけねだるのだな」と言ってやると、大体黙ってしまいます。まだぐちゃぐちゃ言うようだったら「俺とお前の親戚は人間であることを認めるな」と確認した上「同じ人間に不公平な取扱いをするお前は『人種差別』をしているのと同じことになる」と言ってやります。人種が多いインドネシアでは「人種差別」ということがご法渡になっていますからここを突いた論理です。

 お土産の数が余って、あげなくてもいい人にまであげてしまい、その同僚達に「俺達にも公平にお土産をよこせ」と言われる場合があります。その時にはあげる人に相場よりもいくぶん高い値段で売ったことにするのです。もらった人は同僚に「買った」と言いますから、彼や彼女の同僚達からはクレ−ムが出てきません。この論理を発見するまで、数年かかりました。フゥ−。
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2009-10-12 追加訂正
2015-03-02 修正
 

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