嗚呼、インドネシア
第8話 西スマトラの鉄道と古い学校
 2003年3月22日にブキティンギで行われる送別会に行く途中にあるリッゲンバッハ式の鉄道のレールをみて来ました。
 この鉄道は100年以上も前に建設され、いまでもサワルントの炭田からパダンのトルクバイユール港まで石炭を運んでいます。途中のソロクからパダンパンジャンの間は急勾配が続いているので普通の鉄道車輪だとつるつる滑ってしまうのでこのようなリッゲンバッハ式が使われています。
この記事を書いたはるか後の2010年ころにはにサワルントからの石炭輸送は鉄道ではなくすべてトラックに切り替えられました。
ですから、西スマトラ州では旅客・貨物双方とも定期列車が走らなくなりましたが2013年頃に復活して2015年のダイヤではパダンとパリアマン間で一日4往復運行しています。パダン発が6:00, 9:10, 14:00, 16:30で、パリアマン発が5:45, 8:50, 14:15, 16:20。所要時間は約一時間半です。
パリアマンで宿泊される際にはぜひ、Safari Inn hotel Pariamanへ。Omdoyokの名前を告げると少し安くなるかもしれません



<Aind8-01>
レールとリッゲンバッハ式ラック。写真の白髪の紳士は度欲の師匠です。

<Aind8-02>
ラックの詳細。写真の左に向かう上り坂なので左側だけが摩滅している
リッゲンバッハ式のラックってこんな構造になっているんですね。アプト式を使っている碓氷峠ではじっくり見たことがありませんでしたので比較はできません。ウエブサイトを探してみるといろいろな形式のラックがありますね。
  下のスケッチは報告書などに使わないでください。寸法はすべて概略ですから。責任はおえません。


2009年9月21日にようやく碓氷峠に行ってアプト式ラックを見ることができました。
スイス人、ローマン・アプト氏により考案された急勾配対応の方式です。

碓氷峠を越える鉄道は明治25年に開通した。最大勾配は6.67%であり、通常の接触式レールでは汽車が進まないのでドイツ風のギア式にした。
6.67%の坂は早歩きをすると息が切れるほどきつい。

碓氷線は当初蒸気機関車で運転されていたので、トンネルが小さく架線を張る余裕がなかった。したがって地下鉄銀座線のようなサイドレール式としたとのことである。

左の写真は第5トンネルの「メガネ橋」側出口。どういうわけか、トンネルの形がここだけいびつである。
こういうトンネルにはお化けがたくさん住んでいると聞くが遊歩道のトンネルではお化けを見ることがなかった。


 送別会が終わった翌朝、Padang PanjangとSingkarakとの中間で、珍しい建物を見つけました。これは140年前に立てられた「若衆宿」で三層になっていて、今でもこの目的で使われています。
 西スマトラでは男の子たちは夕食を済ませるとこのような村の集会場兼学校で勉強して朝までそこで過ごすような慣習があります。もろちん、枕投げをするためではなく勉強するんです。勉強といっても英語や数学ではなくイスラムの勉強ばかりです。他の村の出身者の話では、寝る前に村の先輩「悪がき」たちからいろいろと知恵をつけられるようです。毎日の「お泊まり会」はなかなか楽しいそうです。
 
 学校ですから女の子もいますが、女の子は男の子とは異なり勉強が終わると父母の元に帰って寝ることになっています。
<Aind8-03> 正面から見たところ
<Aind8-04> 斜めから
 気がつきましたか?一階の床の真ん中が下がっているでしょ。建設後に地盤が沈下したものだと思っていたら、そうではなくもともと左右が上がった形の建物なんです。どうしても大型木造船の構造が頭に浮かんできます。床はもちろん水平です。
この学校の隣に建っているモスクがどう見ても「タコ」に見えるので、皆さんにも楽しんでもらおうと掲載します。

<Aind8-05>
子供のタコが精一杯触手を広げているように見えませんか。モスクの表札の右側に付いているスピーカーが口にみえます。

 宿舎に戻ってから師匠から一枚の地図を見せていただきました。TACTICAL PILOTAGE CHART TPC M-10AGという記号のついたものでした。この地図を見ると今では廃線になっている鉄道も描かれています。その鉄道を以前に掲載した地図に重ねて描いてみたのが次の地図です。
  上の地図のように、Pang PanjangからPaykumbuhの先までとSawah LuntoからRiau方面への鉄道は鎖線で示したように廃線となっていて列車の運行はしていません。実線で現してあるSawah Luntoから、Solok、Pang Panjang:経由Teluk Bayurまでの区間は主に石炭の輸送に使われていました。
 さて、ここで不思議なのは、Sawah LuntoからRiauに向かって東に伸びている線路です。日本統治時代に、延々と熱帯雨林と湿地帯を抜けて建設されたと聞きます。この建設事業は困難を極めたのではないか思います。
 この線は終戦直前に完成したので一度も使われないままでしたが、2000年頃からSijunjung方面の線路の復旧作業がおこなれました。しかし列車の走る気配はまったくありません。列車を運行したとしても復旧作業の費用が莫大でしょうから、乗客も貨物輸送でも採算が取れるわけがありません。どうしたことでしょうね。Otonmi Daerahの一環として行ったものかもしれません。無駄遣いですよね。
 上の地図をクリックすると西スマトラ全体の地図が現れますのでご利用いただければ幸いです。
ここからは、2007-2-3に追加した分です。

 Majalah KA Edisi 06/Januari 2007に掲載されていた西スマトラの鉄道の関連記事を転載します。 Majalah KAとは「鉄道雑誌」の意味で、マニアックなものですので、何ものにもこだわらない悠揚としたインドネシア人には合わないものだと思い込んでいましたら、このような雑誌を偶然発見してびっくりしました。

西スマトラの鉄道線路図 (二重線の部分はギヤ式) 2007年当時

西スマトラ州における鉄道建設は1887年にSoematra Staatsspoorwegen (SSS)によりSawahluntoから開始された。区間はSawahluntoからEmma Haven (現Teluk Bayur)港までの155.5kmである。この鉄道建設が有名になったのは足を鎖でつなげた労務者を使ったことからであった。この区間は1894年1月1日に開業しOmblin とSawahluntoh炭鉱からの石炭輸送に使用された。
 1896-1906年の間にはPadang PanjanからBukittinggi経由Payakumbuhへの延長86kmの区間が完成し、線路の総延長は240kmに達した。 最高標高地点はSiggalan山とMerapi山の間の峠付近のPadang Panjangの海抜1155mとなっている。ちなみにPadang駅は海抜8mしかない。

 上の図で二重線で示した部分は勾配が5から8%に至るためギヤ式を採用してある。

 Padang PanjangからPariaman経由Narasまでの鉄道も旅客運送のために敷設された。
(図ではLubuk Alung)から分岐していて、NarasのさきのSungai Limauまで描かれているが、本文と矛盾する。こういうことに拘っていたらインドネシアでは生きていけないから、まあいいか!
 以下は2019/12/26追加分


この路線図は2019年にwikipediaのデータをもとに改変したもの。
サワルントゥーの石炭はほぼ掘りつくしてしまったため、鉄道輸送は中止されたとともに、テルク・バイユルへの貨物輸送もトラックに置き換わってしまったので、鉄道輸送はインダルンセメントの材料輸送用と観光用として残っているのみのようだ。従って駅も休止しているものがほとんどである。現在町の南東側にAir Tawar駅ができて運用中。

目次に戻る

2003-3-30作成
2007-2-04追加
2009-9-22追加(碓氷線記事)

2015-03-01 修正
2016-08-22 修正
2019/12/26 追加修正

inserted by FC2 system